「このまま行つたら『日本』はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう」<P> これは三島が割腹自殺の半年ほど前に残した言葉である。本書のほとんどの寄稿者が引用するこの言葉は、今の「ニッポン」を恐ろしいほど的確に言い表している。<P> 但し、三島の予見をその後のニッポンがそっくりトレースしてきたという事実、つまり三島の先見性に対する評価と、割腹自殺に至った三島的美学に対する評価は、分けて考えるべきだと思う。三島の予見が正鵠を射てるのに対し、三島の行動は独善的であり、ナルシシズムであり、パフォーマンスであり、その評価は35年を経たからといって変わるものではない気がする。個の世界観を共同体に置き換えることなんて、当時ですらアナクロニズムに過ぎなかったのだから。ただ、その後のニッポンが“バーチャル”なものに嵌り込んで行ったのに対し、三島が自覚的に“バーチャル”なものを創造し、それを律し、自己完結したことについては、来るべき時代への対処法を示していたのかもしれないが。<P> 三島事件を客観的にまとめるべきパートを「平和ボケニッポン」に意図的に締め括るプロローグは残念。<BR> また、今回の複数の寄稿者のうち団塊世代の物言いはちょっと気になった。1970以降の消費生活もポストモダンも先導してきたのは団塊世代であり、そのこと自体はどうでもいい。だけど、いまさら三島を持ち出して「憂国」ぶりを示すのは、それこそ三島的我が儘というものだろう。団塊世代にはもう少し時代の当事者であってほしい。自分達で作り上げてきたニッポン共同体の中で、僕らはあがいていくしかないんだから。今さらヒーローも革命もないんだし。
2・26事件は三島に決定的な「絵」を焼き付けた。雪、血、死、まがごと・・・・。<BR>では、我々にとっての11・25事件は・・・<BR>場違いで、とんでもなく場違いで、それ故にあまりにも強烈・・・でもない。今風に言えば、目が点になる、てなもんで、実存の脈絡を外されたような不定愁訴・・・。リアルタイムでの経験は意外とさほど強烈でもなかったように思える。<BR>その衝撃は鈍く、受けた時はさほどでもなかったが、1日、1週間と経つうちに痛みが中からジワーと効いて来るような。事件そのものがあの日を反芻させ、忘却を許さない。そして35年経た今、あの日がどんどんリアルになっていくのに気付く。<BR>この本に書かれている8人の人々も、実はその日の衝撃よりも、その後の後遺症めいたものの方が大きかったのではないだろうか。<BR>森山大道氏の文が一番印象的でリアルに思えた。
「あの日」というのは僕にはない。<BR>僕は三島が自決したその翌年に生まれた。<BR>三島の政治的発言を見ていて、彼が憂えていたことが、<BR>みごとにこの「失われた10年」で実現しているように思える。<BR>本書では、さまざまな論者が、さまざまな視点から「あの日」<BR>を振り返っている。<BR>だが、僕のように「あの日」が存在しない世代も今では多いはずだ。<BR>そんな世代が、今の日本と照らしあわせて三島の言説をどうとらえるのか。<BR>その辺も気になる。