本書の主人公は信長でも太田牛一でもない。歴史の大事件が実は私たちの知る英雄でなくそれを影で支えた人々によって成し遂げられたという視点が本書の根底にある。前野氏(長康)、丹波、清玉上人、切支丹といったキーワードをもとに歴史の数々の謎を結び付け、最後に英雄信長の最期と当時死んでいった庶民が意外なところで出会う。舞台回しである太田牛一の役回りは2つ。一つは、当時のもの書きとしてのさまざまな葛藤に携わった生き証人としての役割。信長の伝記を記した者が次の時代の覇者秀吉に対してプライドを賭して対決するくだりなどは、独特の味わいがある。本書を書くに当たって様々な史書に当たらねばならなかった筆者自身の葛藤が生み出した世界とも言えよう。いま一つは、個人的に信長を知り愛していた者が、信長に家族を殺されたものや信長を暗殺しようとした人々など、時代に蹂躙された庶民たちに対面する役割。様々な感情が交錯する中での会話から信長像を立ち上げていく。最後に、信長と当時の日本の状況を「コンフェイト」と「暦」の2つを巡るエピソードから描写する。現代にも通ずる日本の閉塞感というのが浮き彫りにされ、単純な叙述ながらうまいと思ってしまった。
本書は信長の遺体がどこにあるのか、と言う謎解きの<BR>部分が面白いのは当然ながら、今までにない諸説の<BR>新しい解釈が多く含まれていたことが興味深い所。<P>秀吉の出生、桶狭間、弟(信行)との確執、信秀の葬儀<BR>など、自分が知らなかっただけかも知れませんが、その<BR>解釈には、納得できる部分が多くありました。<BR>「信長公記」の現代訳文も読んでみたくなりました。
大田牛一は信長の右筆ではないというのが資料で明らかになっている。『信長公記』は命令されて書いたのではなく、牛一が個人的に書きつづったものだということになる。<BR> 各所に誤った記述などが見られ、これしか残っていないから一級の資料となったと言わざるを得ない。<P> 『信長公記』はこれくらいにして本書。近衛前久主犯説は安倍龍太郎氏が『信長燃ゆ』ですでに発表してしまっている。<BR> 光秀の不可解だった行動と言うのも考え付きそうだ。<P> 題名に惹かれたが、どうも資料探しに時間を取られて時代遅れの作品と見受けてしまう。目新しさなど全くない。<BR> 日々歴史の本に目を通している方は購入するのは勧められない。<BR> あまり歴史の本を読んだことのない方なら読んでもいいかもしれないが、本書の秀吉はちょっとやりすぎだ。いくら生い立ちが鮮明でないとはいえ付け焼刃が過ぎる。<P> 資料の少ない本能寺の変について苦労したことに★2つつけた。<BR> 一度読めば十分だろう。<BR>