著者は、米国がその意に沿うように日本を動かすためのネットワークを具体的<BR>人物名と共に紹介する。このネットワークは、政治外交・財界・シンクタンクなど<BR>広範囲に及んでいるのだと。本書のテーマとは別の部分として、目的達成のた<BR>めには平行して種々の手段を使う複層戦略の意味を考えさせられた。
70年代後期に国際政治学なるものを勉強していたころ、現実の日本政治を現代政治学のツールを使って分析した米国のジャパノロジストたちの作品は非常に新鮮な印象を与えたものでした。日米繊維交渉や沖縄返還の日本の政治過程が、米国の政策決定理論の道具を使いながら分析されているのを見て、非常に感銘を受けると同時になんともいえない違和感を感じたことも事実です。またjoseph nye のpower and interdependenceもその斬新な視角には驚かされたものです。ゼミの指導教授の"この本は30年後もその価値を失うことがない”という指摘も、逆説的ながら、その作品が持った戦略的な政策論の意味では、的中したようです。思えば、私もあまちゃんだったわけです。もはやそれらの本には何の魅力をも感じませんが、この著作の中には何人ものその当時のjapanologistの学者たちが出てきます。著者によると、みんな別の隠れたagendaを持っていたわけです。著者も指摘している通り、これまで指摘されなかったのが不思議でした。でもとうとう書かれてしまいましたね。この奇妙な見えない共謀関係が。日本側のcounterpartsも一緒に。ただ、スペースの都合上でしょう、個別のハンドラーについての突っ込んだ分析はなされていません。したがって、あくまでも仮説の域にとどまっています。もちろん、これは仮説ではないのはいうまでもないことです。本当に大事なことは、誰も書きませんし、コメントもしませんから。おそらくこの作品も黙殺されるだけでしょう。対日ハンドラーの世代的な分類と最近の合理的選択派のその中での勃興と旧来の地域研究の衰退についての指摘は、確かにアメリカの知的動向を的確につかんでいます。とくにこのsocial engineeringの熱情に支えられた制度移殖に燃えるアメリカ人たちの知的武装の程度と彼らの間での生存競争は生半可なものではありません。日本は別の戦争にも負けているわけです
ここ10年のうちで、私が読んでびっくりと目が覚めるような思いをした本の著者は、だいたいが副島隆彦氏だった。もう、私のものの見方がガラリと変わった。変わってよかった。でないと、もっと馬鹿なまま生きることになったろう。この本は、副島氏の一連の「事実暴き系」本の系譜につながり、かつそれらの成果の大きなひとつだ。<P>構成も明快で、文章も明快で、記述の根拠も明快な「快著」だ。本書は、アメリカ帝国の覇権維持の戦略のささやかな一部である日本操作に従事するアメリカ人(ジャパン・ハンドラーズ)と、それに協力する日本人(カウンターパーツ)について、はっきりくっきり、実名で整理している。これらの相関関係とその成果(?)を読みすすめることが、ごく自然に、戦後の日本史を振り返ることになり、かつアメリカ合衆国政府の生々しい構造を学ぶことにもなる。<P>なんの力もない小市民のひとりでしかない私であるが、国家や社会や、世界の提示する嘘を信じて生きるのだけはご免だ。どんなに惨めでも、私は事実が知りたい。夢もなく怖れもなく、ただ事実を知りたい読者にお奨めします。<P>しかし、この日本のカウンターパーツやっている人々の意識が本音が知りたいね。属国のエリートというのは、自分の国を売ってでも、保身と栄達が欲しいと自覚して、確信犯的に国を裏切るのだろうか?それとも、それこそ国益と信じているのだろうか?それとも、祖国に怨恨を持つ体験をしたのだろうか?真のエリートであることの重荷と孤独を担えずに、宗主国という「身勝手なお父ちゃん」の指示を待つしかないのが、属国の人間ならではの奴隷根性なんかな。