インド独立の立役者ボースと聞くと、たいていネタジー・チャンドラ・ボースを思い浮かべてしまうと思うが、チャンドラ・ボース以上に日本と深く関わり終生インドには帰らず、ついには日本で客死。インド独立を日本から支援していたのがこの中村屋のボーズことラース・ビハリ・ボースである。<P> 在インド時代にハーディング爆発未遂事件の実行犯としてイギリスから追われ、逃亡先として日露戦争で戦勝国となった日本を選ぶ。タゴールの親戚と偽り来日。玄洋社の頭山満の協力を得て中村屋主人の相馬愛蔵・黒光夫婦の下に身を隠す。表に出られない憂さばらしから料理作りに専念し、それが中村屋のヒット商品である「インドカリー」になる。<P> 相馬家の娘・俊子との結婚。2児の父親、俊子の死。インド独立連盟・インド国民軍内での対立。ビハリ・ボースのインド独立における役わりは、チャンドラ・ボースにインド独立連盟の代表権を明け渡すことで実質的には終了する。そしてチャンドラ・ボース同様インド独立を見ないままの死。<P> この本を読むと、一人の人間のインド独立に賭けた思い、苦悩、葛藤が痛いほど伝わってくる。あとがきで著者はビハリ・ボースに対する学術的探究心を越えた愛があると書いてあるが、まことに愛情あるきめ細やかな記述になっているので、読んでいるうちにこの男の生涯に引き込まれてしまう。<P> とりわけ心を打つのはビハリ・ボースの娘・樋口哲子さんに会ったおり、まだ著者が一介の大学生に過ぎないにも関わらず貴重な資料を惜しげもなく貸し与えてくれたところは著者の愛情が通じたのであろう。<P> 装丁・デザイン・引用文献・帯・カバー裏・貴重な写真・読みやすい文と文字間隔それにもまして内容、いずれをとってもひじょうにレベルの高いしっかりした評伝に仕上がっている。まったく良い本が出たものである。<BR>
現在、京都大学の学振特別研究員という若手研究者の力作。インド独立の志士R.L.ボースが日本に流れ着き、中村屋でインドカリーをつくり、戦前・戦中の大アジア主義の言論界をリードするまでになった経緯が、詳細な文献の裏づけを持って力強く語られる。大東亜共栄という夢が、日本の独善的なスローガンであったにせよ、当時欧米の植民地であったインドや東南アジアの人々にどのように受け入れられていたか、少なくとも日本で活躍していた革命家に力を与えたかがよく理解できる。<BR>彼は、最晩年、いよいよ軍部と結びつき、日本軍と協力しインド独立に奔走するが、その夢目前に病に倒れる。それを受け継ぐのがチャンドラ・ボースなのだが、拙速なインド侵攻に反対するR.L.ボースがも少し生きていたら、陸軍最大の失策と言われるインパール作戦もなかったかも知れない。<BR>戦前の隠れた歴史に光を当てた力作である。学者が書いたノンフィクションにしては文体も読みやすい。
『新宿中村屋のインドカリー』が生まれた背景にも強く印象付けられたが、第二次世界大戦中における日本軍の戦略の中に、インド人が深く関係していたことにも驚いた。<BR> <BR>そういえば、以前、マレーシアのマラッカへ行ったときに、現地のインド人からこんなことを言われた。<BR> <BR>「戦争中に日本は、ここマレーシアでも中国人を大量に殺していった。<BR>赤ん坊を空中に放り投げては、落ちてきたところを日本刀で刺す。<BR>とても残虐だ。しかし、日本軍は、我々インド人にはそのようなことをすることはなかった。むしろ、とても親切に接してくれた。」<BR> <BR>英国は、自国のアジア戦略のためにインドを支配下においた。<BR>シンガポールを含むマレー半島をも支配し、そこへインド兵を招集・配置した。<BR>それゆえに、現在、マレーシアとシンガポールには、インド人のコミュニティーが存在する。<BR> <BR>日本軍は、英国をアジアから放逐するために、このインド兵を利用した。R.B.ボースの仲間である反英独立運動の闘士を現地に派遣し、英軍支配下のインド兵を日本側につかせる作戦に出た。<BR>だから、当時の日本にとっては、マレー半島に居住するインド人は、重要な存在であったことは想像に難くない。