国際政治やテロリズムに関する著述は、あまりに近くから見すぎるものも、遠くから見すぎるものも、どちらも身近に感じられない。殺人や圧制の事実も知りながら、自分には関係のない出来事だと感じてしまう自分の感覚が、おかしいのではと思うこともあった。しかしソンタグの視点を通じてわかることは、こうした態度は極めて自然であり、しかしだからこそ、常に自己を「検閲」することが重要なのだということだ。そしてそれを為すのが個人の「良心」である。<P>この本に収められているソンタグの言葉は、上からものを見る知識人のそれでも、自分の経験だけで語ろうとするジャーナリストのそれでもなく、常に不安定な境界に身を置き、自己を律して、懐疑的にものを見て発言する人間のそれである。何かに関心を持つことよりも、何に無関心であるかが、その人の人間性を形成するのではないか。それは世界が自分だけのためにあるのではないことに気づくこと、他者の存在に気づくことだからだ。そんなことを思った。
ソンタグを失ってしまったという喪失感に襲われてしまう書物である。緻密で晦渋な彼女の批評作品とは異なり、彼女の肉声が心を振るわせる。ところどころにちりばめられた芸術に対する珠玉のようなことばや、曇りのない瞳を通して見られ、そして語られる世界の現状についての考察がより生々しい声をともなって聞こえてくるようだ。われわれはなんという美しい人を失ってしまったのだろう。
来日時のシンポジウム(木幡和枝、浅田彰、磯崎新、姜尚中、田中康夫)の他、短い文章や講演、インタビューなどが収められた、日本語版独自の編集。ソンタグという人は、対談などでも「なあなあ」を許さず、相手に鋭く突っ込む人だという印象を持っていたが、この本を読んで、それは一面的過ぎる見方だったとわかった。反省。確かに「人道的介入」といった曖昧な用語を安易に用いることを批判する姿勢は厳しい原則主義者のそれだ。けれども同時に、原則を曲げないということに時として潜む精神の怠惰にも注意を促し、つねに自分の言葉や感情を疑いながら考え、発言せよと語る。そして自らそれを実行している。特に考えさせられるのは、ブッシュの侵略戦争を全身全霊で批判しながら、他方で「私は平和主義者ではない」として、一定の軍事行動を肯定するとはっきり言い、しかもこの二つの極のあいだの危ういバランスにも注意を促していること。全体に、言葉づかいや理論は決して難解ではないけれど、問題の微妙さをじっと見つめる著者の態度に寄り添っていくのはかなりの緊張を要する作業で疲労する。でもだからこそ、ドイツでの講演で語られる、子供の頃の『ウェルテル』との出会いのエピソードにはじんときた。「文学は自由そのものでした」――まさにそうでなければならない。小著だが、散りばめられた鋭い洞察の数々から多くを学ぶことのできる、良い本だと思います。