1983年に出版されて以来、ナショナリズムを語る際には必ず引き合いに出される書籍<BR>である。いろんな本で引用されるので気になっていた。遅ればせながら手にとった。<BR>「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である。そしてそれ<BR>は、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される。」<BR>その起源はさほど古くはない。<BR>「世界史的観点からすれば、ブルジョアジーは、本質的に想像を基礎として連帯を達成し<BR>た最初の階級であった。」<BR>これは、同時性の観念=併存するものの鳥瞰的な想像の成立を意味しており、それを生じ<BR>せしめた要因のひとつとして複製技術の発展をあげる。勿論、W・ベンヤミンに依拠してい<BR>る。<BR>また、近代化がすすむにつれて、本来滅んでいく筈の旧体制が、延命を図るために捻出す<BR>るものを「公定ナショナリズム」と呼んでいる。大東亜戦争における日本もその一例とし<BR>て分析の対象となっている。同化政策や言語政策にあらわれる特徴が分析されている。<BR>「民衆的ナショナリズム」「公定ナショナリズム」…こうした幾つかの由来をもつナショナ<BR>リズムの諸パターンは、「モジュール」として複写・複合され、今や言語の同一性すら必要<BR>とせずに成立しうる地平にある。<BR>アジール的なネット空間を考えた時、これはどう変容していくのだろうか?<BR>否応なくそこに興味が湧く。
ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』は近年、学術分野で不可避の「国民国家」の起源に関する著書です。現在では政治系の学生の教科書として広くよまれていますが、様々な分野で引用されることが多く、ここでアンダーソンの議論を確認しておくことは極めて有益であると思われます。<P> さて「国民は主権的なものとして想像される」。この有名な言葉はなぜ近代に人々が「国家」というものに対して進んで命を捧げたのか、という現象に対する著者の仮説であります。アンダーソンの議論によると、近代の国家という政治システムは「上」から与えられるものでなく、「下」から生み出したように人々が「国民」という「主役」になれるような操作のもとに誕生したものなのです。<P> つまり旧エリート層!らの権力移行に伴って、新興エリート層は民衆化という「公定ナショナリズム」を生み出し、大衆操作を行う必要があったわけです。それはナショナリズム運動の中で民衆を一つに包括するという目的で民族主義・人種主義といった概念や教義を生みだし、それらを文学や「無名の戦士の墓」などの文化の中に組み、国家への愛国主義へと育んでいったわけです。この意味で民衆は新興エリートに翻弄・操作される対象でしかないわけです。<P> ここにアンダーソンの近・現代史が生み出した民衆による殺戮の歴史の答えがあるように思えます。『想像の共同体』は日本の民主主義、教科書、愛国主義などを考える洞察力や議論の力として極めて良書となることは言うまでもありません。
国民とは何か。国家とは何か。我々現代人が何気なく使っているこれらの言葉は、近代以降に作り出された真新しいものである。B・アンダーソンは彼の専門である東南アジア・東アジアの植民地支配を分析することで、我々の意識の中にいかに巧妙に共同体意識が形成されていったのかを明快に解き明かしてくれる。政治・地域研究者の必読書。