フランス現代思想とユダヤ教の研究をしている(と思う)内田樹が、宗教学者(であり実際の本願寺派の寺の住職)とインターネットで対談した本。の上巻。 <P>自分の知らない分野について、こんなかたちで本にしてしまうのは、何というか向こう見ずだと思う。 <P>けど、書かれている対話の内容は生ぬるいようで、鋭い。「因果」「執着」についての議論が印象に残る。仏教は、因果ということを説くけど、これは原因があって、結果があるということではない。 <P><たとえば、親という存在が子を生み出す原因である、ということを考えてみて下さい。親は子の因でありながら、子という果が成立した瞬間に初めて親という概念が成立します。親という「因」と、子という「果」、概念の誕生は同時なんですね。>(釈さん) <BR> <BR>なるほど。で、世の中には実際に何が因なのかよく分からないことがたくさんある。そういうときにぼくらは、何が因なのかを突き止めようとする。でも、よく分からない。分からないままでほっとけなくって(=「執着」があって)こじつけることもできるけど、結局は「無明=本質が分からないこと」の中に苦しむ。 <P>ふむ。結局、じゃ、浄土真宗を始めとする仏教っていうのは、何も分からない、ということを教えているのか、ということになる。 <P>その通りみたいだ。 <P><しかし、仏教の道は、こんな調子で展開していきます。[、、、] 『それじゃ、いつまでたってもすっきりしないじゃん」と思われますか?確かにそうかもしれません。中沢新一氏は、「仏教ほどカタルシスがない宗教はない」と語っています。『あれではない』、『これではない』という繰り返しで、なかなか『これだ!』ということにならないからです。>(釈さん) <P>カタルシスがないんだね。けど、そういう「分からない」ということに耐え抜く精神を鍛錬してきたからこそ、何千年も歴史を生き抜いてきたのだろう、と思う。世の中分からないことだらけだし。
この本、上下巻とも、珍しくノンストップで読みきりました!!浄土真宗のお寺に生まれ育った私が、環境があまりに自明なだけにぼんやりと抱いていた拒否感は、内田氏・釈氏のお二方の絶妙な論の掛け合いによって取り払われた気がします。仏教を語る方法に、現代に即応したボキャブラリーを駆使されている釈氏の仏教、浄土真宗への姿勢にただただ感銘を受けました。仏教の必要性とは、究極の可能性である「死」は、必ずしも「元気な私」という「生」の二項対立のみのものじゃない、と思えることかなと再認しました。一読でなく繰り返しかみ締めて考えられる本です。
しっかり、2冊目も読ましてもらいました。結論を最初に述べます。やっぱり、おもしろかったです。まず結論?いやいや、結論、もう一つの部分に総括の結論を。なぜ、こんな書き方をしたか、それは、この書には、後書きが二つあったということもあります。そして、私は最後の後書きを読んでいて、この本が何故、こんなに、興味深く、大変おもしろかったのか、その答えが2つ目の後書きを読んでいて、釈氏の言葉で改めて気付かせてもらったからです。“最後の最後まで、すっきり読ましてくれる書”これが僕の総括の書評の結論です。 <BR>本当に良き本です。では、どこがおもしろく、どこがよかったか。それは、終始一貫しての柔軟性、ライン際ぎりぎりを走ってるときもあるのに、決して話の筋を外さない、クオリティの高さ。それはまるで、F1でヘアピンカーブを曲がる時のような、そこはバトルの真っ最中で、観客や視聴者をひきつける、そして巧みなテクでそれを超えると、320キロで直線を走りぬく、それは、一瞬の風よう、しかし、人々に鮮超な感触を与えてくれる。まさに、それが、この書。内田氏と釈氏の談義であり、討議であると思う。そんな新鮮な風が吹く世界、だから飽きることはない、画面に食い入って、最後のチェッカーフラッグは後書き、シャンパンファイトはもう一つの後書き、そんなところのように思う。コメントが自分に酔っていてすみません、でも本当に素晴らしい書です(笑)どの辺りが柔軟か、それは、上巻の時の書評を見てもらうとして、全く立場の違う両氏がお互いを認め合いながら、すごい話が交わされる、それを認め合う、柔軟性、とにかくこの書は柔軟性のたわわな果実です。そんなことを、最後の部分で改めて気付いたと書くと、何だ、そんなことと思われるかもしれない、でも、“改めて気付いた”、このことにこそ宗教の本質があると思います。宗教とは、大きな意味で救いが発生するもの、私はそう認識しています。人は決して完璧ではない、だから、快い関わりあいこそ人を幸せにすると思います。人は人生において他者に対し聞く耳を持つこと、あらゆるものに耳を傾けること、これほど大事なことはないのではないでしょうか。<BR> 一つの縁によって気付く、いや気付かせてもらう、このことによって人は救われるのではないか。そんな宗教の大事な部分を釈氏は、最後の最後にトラップとして、仕掛けたように感じました。読み手の勝手な意見ですが、この書の、難しい哲学の人の言葉を内田氏がめちゃわかりやすく説いていることや、釈氏、両氏の視野の広さ奥の深い語りを見ていると、そう感じてしまいます。<BR> 下巻は、上巻にまして、社会問題があらゆる視点から述べられていたように思う。前半は上巻の談義の続きもありながらの日本人の宗教性が述べられ、制度宗教、市民宗教、自然宗教という言葉から見事な話が述べられています。話は素晴らしく、展開していき欲望の話から、超越した存在がの話で、被造物感覚、絶対的な遅れの感覚など、人間を超えるなにかという視点から話され話は展開され。そこから倫理の話に持っていくことがすごい(笑) 倫理とは常識(内田氏)、非常に感銘を受けた。常識とは実体がありそうで実はないもの。たしかにそうだ。私は両氏の倫理、常識を交えた談義この部分に下巻での一番感動した部分である。倫理とはダブルスタンダード?実におもしろい。そして釈氏、常識の話からの情報化社会、価値観の多様化への提唱、すっごい共感!!!!!何が何かわからない、でも人は何かにすがりたい、それが、今の悪い新興宗教にすがり、お金や家族、人生を奪われる人の姿じゃないでしょうか、ネオンを求め割拠する若者の姿じゃないでしょうか?本質を失いつつある時代、そんな時代に提唱を鳴らすことのできる書、私はそんなふうに思いました。