邂逅:思いがけなく出会うこと。めぐりあい。タイトルは著者が二人とも病気で新しい自分に出会ったことと、本来はちゃんとした対談として出会うことが予定されていたのにこういう形になった、という二人のめぐりあいの思いがけなさとを共にあらわしているようです。<P>脳出血で左片麻痺となった比較社会学者と、脳梗塞で右半身不随となった免疫学者とが、それぞれの病気の体験をも取り込んで綴った往復書簡。既に予定されていた対談の直前に多田さんが倒れ、それでも多田さんがワープロで、鶴見さんは音声録音で、という形をとって企画は進められたのだそうです。<P>多田さんは生物の免疫学的なアプローチで、鶴見さんは比較社会学から、と異なる方向から「自己」や「社会・階層」について学問の共通点、お互いの学問の方向を見出そうと試みておられます。学問的なギャップも大きく、たとえ予定通りの対談が成立していても結論に至るような形のものにはならなくて当然だったと思います。ここではそれよりも、病気を事実と認め、前向きにそれをも認識の一助としようとする「学者魂」のようなものを強く感じました。<P>突然意識を失い、意識が戻って自己を確かめようとして行ったことは、多田さんの場合は謡曲をおさらいすること、多田さんの場合は歌を詠むこと。どちらももっとも好まれたご趣味だったこと、は興味深いです。そういうことも、「人間は究極の部分で自己のなにを頼りにするか」の大きなヒントになるのだと思います。<BR>一瞬のうちに全く別の生き方をしなければならない体になった、そこからの変化を多田さんは「自分の中に新しい巨人が生まれている」と表現されます。鶴見さんは「回生」という言葉で、新しい人生を切り拓こうと言われます。失ったものを取り戻そう、と言うのではなく、新しいものを受け入れよう、取り込もう、とする姿勢は学べるものなら学びたいです。<P>このような病気では、障害によっては言葉が回復しない場合もあります。そういった方たちのためにも、このお二人のような方が病気体験をも取り込んで後進を刺激するような学問への提案だけでなく、治療にも役立つような体験と鋭い分析をこれからも聞かせて欲しいとおもいます。
二人の学者が半身不随の身体になってからの往復書簡集である。書くことも話すこともできなくなった多田はワープロを叩き、片や鶴見は音声をテープに取るという方法で。異なった学問分野の学者による対話だから、概念の整理や説明から入るため論点の深化という点では自ずと限界があるが、それは些細な問題に過ぎまい。身体の自由を奪われたことを「肥やし」にして、新たな世界認識のパラダイムを模索しようとしている二人の老学者の気迫が読む者を圧倒する。<P>まず、二人の共通の体験が語られる。人間が一瞬のうちにまったく別の生き方をしなければならぬ障害者となったとき、両名ともに身体の底から詩が沸き起こってきたという。自己と世界の抜き差しならぬ関係において現れるのは詩なのである。こうした!身近な」話題からスタートして、多田の唱える「スーパー・システム」が俎上に乗せられる。そこでは自然科学と社会科学のギャップの大きさを感じさせる科学の方法論を巡る議論が興味深い。最後に、自己とは何かという問題に至る(これはこの書簡集を通底するテーマでもある)のだが、男と女の自己に対する感覚の根本的な相違が、多田と鶴見を通して浮き彫りになるというところが非常に面白かった。