発刊当時購入して読んだ読者の一人です。最近再度取り上げられていることは承知していますが、自分自身を取り巻く状況の変化の中で、彼女の存在は今も自分にとっては生きる力です。子供の頃に、違う病気の闘病記を読んでいる友人を遠くから見て、私には怖くてとても読めないと思ったものでした。しかし、この本を読んで「彼女に恥じないように今日を生きたい」と思うようになりました。人はそれぞれの舞台で自己を演じ、そして去って行かなければならない存在です。彼女が過酷な運命の中で、残した言葉の一つひとつが、今の私の生きる勇気になっています。彼女は体の機能こそ奪われましたが、彼女の意志・心の灯火は最後まで失われず燦然と輝いて、今も自分を導いてくれている気がします。
映画と本を比べると、あれでも映画は随分とマイルドになってんだ、と思う。映画は悲しい場面もありつつ希望も持てる内容だったんだけど、本人の日記を元にしているだけあって、相当に、重い。<P> 「徹底して対応が出来ないなら、対応すべきでない」という考えでいた。ヒトに優しく出来ないなら、最初から優しい顔をしない。期待を持たせなければ、失敗した時に必要以上に相手を傷つける事も無いから。「逃げ」だとは分かっているんだけど、それを覆す論理が自分の中になかった。でも、「完全な人間はいないんだから、失敗した時にちゃんとフォローすればええやん」と思えるようになった、この本読んで。具体的にどの文章から感じ取ったかは分からないけど。<P> 身障者の気持ちを分かってあげようと言うのは、健常者の傲慢なのかもしれない。お互いの立場・状況を理解し合い、手助けできる事をすれば良い。それは、「相手が身障者だから『特別に』行う」行為ではなく、日常生活でも同じ事なんだと思う。それが気配りという奴なのかなぁ。
本書は、一人の少女が書いた日記を通じて、脊髄小脳変性症という病気に掛かりながらも、最期まで諦めずに生きたその一生をみせてくれる、切なくも力強いノンフィクションだ。<P> 提示されることは、大きく分けて二つある。闘病生活の中で彼女が感じた葛藤や様々な感情は、「生と死」に対する「生きる意味」という根本的な問題を提示してくれる。<BR> そしてもう一つは、こうした病気に掛かってしまった人々とどう向き合うべきか、を考える具体的なチャンスだ。<P> この病気に限ったことではないが、たわいもない行動や言動が、支えにもなったり、侮辱にもなる。ただ最も重要な事は、「思いやる」などといった言葉だけで表せるものではない。本気で支えてあげたいと思う、いや、支えになりたいという、願いにも似た感情だろう。同情からでは、そのような感情は生まれない。<BR> 「思いやり」とは、理解だけでは偏見に繋がりかねない、あやふやなものだ。理解するだけではなく、知り、実際にイメージを確立することが不可欠である。<P> 苦しみの中にも根底に存在する彼女の優しさ。迷い、苦しみながらも諦めず生きていくその姿。彼女の母親を始めとした、多くの人々が彼女を支える姿。これらの要素は、こうありたいという具体性をもたらし、理想を持たせる。<BR> 彼女の最期まで懸命に生きた姿には、どこか憧れを抱かせる。そしてそれは、私に暖かな気持ちを与えてくれる。むしろそれは、私が彼女に支えられている、とも言えるかも知れない。