「我思う故に我あり」で有名な本だが、あらゆることを疑うという哲学の原点。その方法を具体的に述べている。また、量的相違が質的相違に変化するところの記述は鳥肌がたつ思いでした。その後の西洋哲学を理解する上でのベースになっています。
私はこれまで、哲学に関して一握りの知識も用いていなかったが、しかし本書で明瞭になったことがある。それが、「哲学」というものは人間の真理を如何にして形成していくべきなのか、という人間存在の根源的意味合いを導き得る学問だということだ。私が咀嚼できた箇所を幾つか挙げたい。
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<br /> 「良い精神を持っているだけでは十分でなく、大切なのはそれを良く用いることだ」
<br /> 「真らしさは、あらゆる種類のことがらにおいてたいした苦労もなく見つけることができるが、真理は、ある限られたことがらで少しずつ発見されるだけであり、ほかのことがらが話題になると、知らないと率直に打ち明けねばならないものなのだ」
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<br /> 理解出来そうで出来なそうなセンテンスの数々は、我々をその裏にある本質に導き、そしてその知的経験(理解)が我々に悦びを与える。
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<br /> 人間真理の追求以外にも学問をどのように突き詰めていくか、など実社会に応用できる金言が随所に散りばめられている。言わずと知れた名著を読まれては如何であろうか。
ある本で「我思う、故に我あり」は推論で導かれるものではなく、直接的に結ばれるものだ、と解説してありました。
<br />○人間と自然(動物)の差異と優劣
<br />○神に対する過剰な信頼
<br />「神があり、存在すること」
<br />「神が完全な存在者であること」
<br />「われわれのうちにあるすべては神に由来すること」
<br />何が人間の実体であるか?その問いは、複雑で多様な解答が挙げられると思います。本能的な存在、理性的な存在、感化的な存在…あらゆる形容をもってしても、「人間存在」という、このたった一語によって全てが回収されてしまいます。無限につづく問いの連鎖のなかで、全体を表す表現を簡潔・明朗に言ってのけることは不可能です。人間の思考自体がそもそも動的なものであり、かつ目的論的因果連鎖の反応を精神自体にすでに内蔵されている限り、問いは無限に続いてゆきます。
<br />「わたしは一つの実体であり、その本質は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも存しない」それは思考すること自体が究極の目的とも捉えられそうですが、やはり考えるという営みのなかに人間の人間たるゆえんがあって、人間の本質を形容する言葉として相応しいものだというその一点を述べたかったのだと私は感じています。