ウィトゲンシュタインは1889年イギリス生まれ。
<br />哲学に論理式や言語分析を持ち込んで、それまで哲学の流れを大きく変えた天才哲学者、だそうだ。
<br />なにかの雑誌で某アイドルが愛読書にあげていたので、読んでみた。
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<br />で、結論からいうと、やっぱりというか、さっぱりというか、皆目わからん。
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<br />後半半分はラッセルの解説文と、訳者野矢茂樹氏の訳注と詳細な解説文である。
<br />野矢茂樹氏の訳者解説を読み込んで、やっと、
<br />おぼろげながらウィトゲンシュタインが何をいいたかったのかがわかった。
<br />ような気がする。
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<br />◆世の中は、名前のついたもので出来上がっている。
<br />◆であるから「私の言語の限界が私の世界の限界(p114)」である。
<br />◆しかも私の言語は私の経験が形作るから、違う経験をもつ他人と決して一致することはない。
<br />◆従って全ての哲学的命題はそもそも問う意味をもたない。
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<br />当時、ウィトゲンシュタイン29歳、無名。
<br />すでに著名な哲学者であったラッセルの解説文がなければ、
<br />出版すらおぼつかなかったそうだ。
<br />なのに本人はラッセルの解説を評して「自分のいうことを理解していない」と。
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<br />彼我の認識の一致を否定しているので、いわゆる独我論である。
<br />その説に従えば「論理哲学論考」も原理的に誰にも正しく理解されえない。
<br />であればラッセルがウィトゲンシュタインを読み誤ったのもうなずける。
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<br />筆者はこれを読んで何がわかったか。
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<br /> 偉い哲学者でも、後輩のこれまた偉い哲学者のいうことは理解できないのだ。
<br /> まして普通の人がわからないのは当たり前なのである。
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<br />ということ。
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<br />が、これは間違いなく、読み違えている。
<br />もしかすると正しく読んでいるかもしれないが、
<br />それを証明する手立ては原理的にない。それをウィトゲンシュタインは証明した。
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<br />であれば、それぞれが勝手に読めばよいのだ。
<br />そこにリアリティがあれば、それがそのひとにとっての正解である。
難解だといわれていますが、意外にシンプルな話です。注釈書なんかと首っ引きで読んじゃうと、逆に話が複雑になってしまいます。後期の「哲学探究」なんかの話を「論考」に読み込んだりしちゃいますからね。
<br />誤解だらけだと言われていたラッセルの序文も今から考えればそんなに的外れではありません。
<br />いきなり「世界は事実の総体だ。」と言われても、過剰反応しないで、「へー、そうなの。」って感じでそのまま読み進めると、ウィトゲンシュタインの世界に入っていけます。
<br />もっとも何の予備知識も無いと、さすがに面食らうかもしれません。また、彼の断言口調に毒されてしまうだけかもしれません。ラッセルのことは一応おさえておきましょう。フレーゲまではとりあえず必要ないかもしれません。
<br />「論考」を読んだ後、序文に滲んでいるラッセルの不安を理解できたら、「論考」を理解したことになるのかもしれません。
<br />さて、その後が大変です。
ヴィトゲンシュタインがCamebrigeに学位請求論文として書いたのが本書です。さらっと読めば、単に短い文章がダラダラと記述されているだけです。然し、内容は非常に奥が深い。しかも美しい。彼に影響を与えたスラッファなどの記述は出てこないが、この影響は大きい。然し、このまま本書を読んでも意味を理解することは非常に難しい。これが彼の哲学を嫌いになる最大要因になるのだが、好きな人はこの記述が堪らないのである。読むのであれば、腰を据えて読んでもらいたい。判らなければ適当なサブテキストを片手に読んでもらいたいです。非常に素晴らしく優雅で美しい本であることを改めて認識出来るでしょう。