すでに指摘がある通り、技術革新が音楽の世界をどう変えたかを多様なファクターを考慮しつつ分析した内容で、「Jポップ」はその一挿話でしかない。その意味でタイトルの適切性は疑問だが、非常に興味深い本であるのは間違いない。
<br /> ただ根っこの部分で、私はこの本に物足りなさを感じる。
<br /> 例えば第3章で、広告とのタイアップにより音楽は「その表現の自由のかなりのレンジを放棄しなくてはならない。広告が持つ表現上の制限を受け入れることを覚悟しなくてはならない」(p103)と論じられる。しかしその直前で「筆者は『音楽が企業の営利活動と手を結ぶことそのものが商業主義で許されない』というような原理主義的な芸術至上主義には、賛同しない」と留保を忘れていないし、直後のシメの言葉も「これは、広告が表現の自由に敵対するという意味ではない」「広告表現と音楽表現は、そもそも最終目的がまったく違う、というにすぎない」…しかし、これだけ言った後で「すぎない」はヌルすぎないか?
<br /> 他にも「日本人が英語で歌うことの是非はここでは問わない」(p160)、「音楽家が政府行事に協力することの是非については、本稿では立ち入らない」(p218)などの言葉に、私は慎重さより、むしろ主題に対する熱のなさを感じる。
<br /> あとがきで著者は、Jポップは日本人である自分とは何者かを考えるための「ごくささやかな入り口」と述べている。これだけ広汎な分析を繰り広げながら、著者の視線は自分自身に向かっている。それが主題に対する切実さの欠如につながっているのではないか、と思う。
著者がアメリカから帰国して耳にしたJ-POPという新しい言葉。それについて、徹底した調査を行ない、それがJ-WAVEの企画において作られてことを突き止める。さらに、日本のポップがメディアやオーディオ機器の移り変わりに伴ってどのように変化してきたかということについて、厳密な資料に基づいて、その歴史を述べている。
<br />しっかりした研究書として評価される本だと思う。
そしてこの本の分析した時代のあとに、オレンジレンジというJポップ界の救世主が出てくるわけで。<br>この本の中で「通用しなくなった」という手法を全て焼き直し、なおかつ「新しい音」(パクリがどうこうとか低次元な話ではなく)を作っている。<br>本書で最後に出てくる「心に届く音」というのは、あまりに曖昧なので言及するに値しないが、音楽業界は手を変え品を変え「心に届かせる音」をつくり続けていると思う。<p>それとこれも「通用しなくなった」と認定されてる、テレビとのタイアップだが、現在、アニメとのタイアップが有効的な手法と考えられ、熱い分野になっている。