欧米には、神の存在でさえ論理で証明しようとする文化があります。
<br />このあたりの事情は、岸田秀先生の『ものぐさ精神分析』シリーズに見事な考察があります。
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<br />筆者は、推論に推論を重ねて考えます、考えなくても生きていけるようなことを。
<br />しかし、だからといって、考えなくてよいわけではありません。
<br />「謎」はそれ自身で魅力的だからです。
<br />考えないともったいない、と思います。
オビの「時間は時速1時間で流れているか?」に惹かれて手に取った。
<br />著者の野矢氏は東大の哲学の先生である。
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<br />カントによれば、哲学の問題は突き詰めると、
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<br /> 1.自分について
<br /> 2.世界について
<br /> 3.神(もしくは真・善・美)について
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<br />に大別できる(『現代思想の冒険』竹田青嗣)そうだが、
<br />最近の思想界は2が主流で、1や3についての議論は下火だという。
<br />
<br />本書のテーマは、その意味では古典的な1の認識論の問題に焦点を当てている。
<br />たとえば、
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<br /> ■私たちは「自分が死んでも世界は続く」と思っているが、なぜそういえるのだろうか?
<br /> ■時間が流れるって、どこをどうながれているのだろうか?
<br /> ■私の見ている「赤」と、あなたの見ている「赤」は同じ「赤」といえるのだろうか?
<br />
<br />といった疑問である。
<br />
<br />実生活にはなんの役にもたちそうにない。
<br />マルクスの思想のように、世界に大きなインパクトを与えたりはしない。
<br />しかし、素朴な疑問としてはすなおに面白い。
<br />
<br />そもそも、ミジンコの生態やら、イルカの言語やら、
<br />実生活には何の役にも立たないことに、人はいつも興味津々である。
<br />哲学の謎も、そのように思えばよいのかもしれない。
<br />すなわち、ひとは「自分」を面白いと感じる生き物なのだ、と。
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<br />表題の「哲学の謎」は、おそらく解けたとはいえない。だが、
<br />
<br /> 「へぼな答えで謎としての生命力を失わせないよう、謎のまま取り出す」
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<br />という、野矢氏の意図は成功していると思う。
<br />
<br />本書は野矢氏自身の自問自答、対話形式をとっていて、
<br />それがために、何が謎なのか、何を問題としているのかが非常にわかりやすい。
<br />難解な言い回しで煙に巻く一般の「哲学書」とはまったくちがう。
<br />
<br />哲学は、別に役にたたなくてもいい、ただ単に面白いというようなものなのだ、
<br />ということがやっとわかった気がした。
<br />これはお勧めである。
僕自身の経験でもあるのだけれど、哲学はやっぱりとっつきにくい。
<br />本を読むたびに、存在論だとか、認識論、超越論的だとか、超越的、実在論的だとか、実存、対自、即自などなど、何がどう違うのか、分かりにくい単語が羅列してあるだけに見えてきてしまって、お経を聞いているかのような心地になる。
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<br /> こういったことの要因のひとつには日本語で哲学(特に西洋哲学の伝統を引き継いでいる哲学)することの問題、すなわち邦訳の問題もあるんだろう。
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<br /> この本はそういった語彙を使用することなく、「哲学とは何か」の本質を突いた書だと思う。決してある種の知識が身につく本ではない。あくまで日常的な言葉を駆使し、時には著者一流の冗談を交え、哲学の問題を対話形式によってあれこれと探ることで、哲学的思考とは如何なるものかを浮き彫りにしている(私見だが、プラトンの対話編を思い起こさせる)。
<br />
<br /> 答えが欲しい人には無用な本だ。答えは何も提示されない。そこにあるのは「哲学的思考力」だと思う(ついでに言っておくが、勿論、答えがないのだから「如何に生きるか?」などに答えている訳もないし、そういった議論もない)。
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<br /> 哲学を始めるにはうってつけの本だと思う。ただし、「講壇で教えられる」哲学を始めるのではなく、「自分で考える」ことを始める人にとってはだ。
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<br /> えらそうなことを言って恥ずかしいし、更に、恥の上塗りとでも言うべきか、私は哲学を学ぶ学生に過ぎない。しかしながら、私にとっては貴重な一冊である。これによって、哲学という巨大な城の門をくぐったといってもいい。未だにこの本で論じられている問題の付近を彷徨っている。普通の入門書ならば、門をくぐってから城までの見取り図を与えてくれそうなものである。しかし、この本は、門をくぐってから城までの見取り図を与えはしない。
<br />
<br /> ただ、哲学の歩き方を暗示するだけである。