大化の改新で不思議なことがあった。
<br />蘇我氏を打倒したはずなのに、蘇我倉山田石川麻呂がすぐに重用されていることだ。
<br />本書でも触れているが蘇我赤兄という人物も高い位についている。
<br />蘇我氏の勢力を打ち破ったなら蘇我氏が権力の中枢に残ることがあるのか?
<br />それ以前の物部氏が政治の表舞台から去ったように・・・
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<br />また、大化の改新と仰々しい名前の割には政治の実績がない・・・
<br />何を「改新」したのかよくわからない。
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<br />この書を読んでそんな疑問も氷解した。
<br />なるほど、大化の改新を巡る日本書紀の記述にはそのような裏が隠されていたとは。
<br />本書をこれから読む人のためにタネあかしは避けるが、改新というほど大仰なものではなく、「乙巳の変」と言う程度の政変に過ぎなかったのだ。
<br />道理で大化の改新には具体的な成果がないはずだ。
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<br />題名からみると大化の改新が中心の命題のように思える。
<br />しかし、この書を読み終わればわかるが、本当の対象は日本書紀という歴史書である。
<br />歴史書、それも正史には政治的な意図がまとわりついている。
<br />中国史の世界では、それは当然の前提として読まれている。
<br />だが、日本史の世界ではこれまでそういった考えはなく、ナイーブに日本書紀を読んでいたようだ。何のために、誰のためにという当然の疑問を持てば、テキストの意図や裏が読めて来るという当然のことが新鮮に見える。
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下の方々も言われているように「乙巳の変の首謀者は中大兄である」という定説を覆す新説である。乙巳の変における6つの疑問を元に、これまでの定説の矛盾点とそれに対する著者の新説が分かりやすく書かれており、その疑問点も定説の粗探しではなく、言われてみれば確かにおかしいというもので定説を妄信的に信じていた自分としては足元をすくわれたような思いだ。
<br /> 真犯人(首謀者)についてもいきなり「誰々である」というのではなく、他の容疑者を十分な論考の上で消去法で消していき、最後に残った「彼」しか考えられないと思わせるその筆(論)技は、さながら推理小説を読んでいるかのごとき錯覚に陥らせる。そして、ではなぜ中大兄が首謀者として書かれていたのか?また、なぜそのような必要性があったのか?という別の犯人像が出てきたと同時に誰もが気になるであろう疑問にもきちんと答えを導き出している。
<br /> 歴史を学んでいる人もそうでない人も是非一度読まれることをお勧めする。
昔、ムシゴロシで覚えた日本史の年号の大化改新。「そうか、改革のために悪者蘇我入鹿をやっつけたのか!!」・・・と、本気で信じて疑いもしなかった。学校で習ったことは100%信じて生きてきた。大化改新って当たり前すぎて。ところが、先日、そんな「当たり前」を覆される本に出会った・・・。
<br />そうだよ!!どうして入鹿を殺して皇極まで退位しなきゃいけなかったんだろう??
<br />『日本書紀』の内容は虚構がかなりあるとは言われていた。しかし、史実性が高いと言われている推古天皇以降も相当疑う余地があったことを考えさせられろ作品である。少し歴史をかじったことある私は『日本書紀』を丁寧に読まなくてならないと、今さらながら考えた。
<br />著者の「虚構ならば、なぜそのような記事が書かれたのか、考える必要がある。」という言葉にはガツンとやられた。
<br />その情報は本当に事実なのか?誰かの意図したシナリオなのか?
<br />情報が氾濫した現代だからこそ、古代のセンセーショナルな事件に目を向けてみては??
<br />歴史に全く興味なかった人こそ読んでみては・・・?