遠山啓先生の「数学入門」(岩波新書)に「詩人でないものは数学者になれない」という数学者の言葉が引用されています。湯川先生の本を読むと、数学者に限らず物理屋さんも詩人の側面があるなぁ、と思う訳です。実際、本書の「真実」という短文に「現実の根底にある自然法則に気付くのは達人で、現実の根底にある自然の調和に気付くのは詩人である」という主旨の文章が出てきます。詩人は自らの心の内のイメージを鮮明にし、それを言葉で表現します。その際、ありきたりの言葉でなく、意外性のある言葉の連関/視点に基づいている処が詩人の詩人たるゆえんです。これは一流の科学者が実験結果を説明するモデル/仮説を立てる時にも通じるのではないか、と思ったりしました。イメージ力に溢れる(たとえ方が上手い!)湯川先生の文章に触れて、そんなことを思ったりしました。例えば「思想の結晶」はその良い一例です。水の凍結(氷になると掴める)のイメージを借りて「書物は思想の凍結であり、結晶である」と持っていく下りは、詩人でないと書けません。凄い!このイメージ力を武器に中間子のような「目に見えないもの」の物理を考えておられた訳ですね。
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<br />こうして「科学者は達人であり詩人でもある」と書くと、何だか量子力学の「相補性原理」や「(光・電子の)波動性と粒子性」のように目に映って何だか愉快になりました。(^-^) 実際、著名な物理屋さん(例えばHeisenberg、Schroedinger、朝永振一郎、中谷宇吉郎、寺田寅彦)の文章を読むとそんな達人で詩人(哲人?)な側面が垣間見れて面白いですょ。発想のヒントを探る上でも参考になるかもと思います、お試しあれ。
本当に美しい言葉を使う方だなぁ、と思いました。自分の身の回りの事柄や自分の研究対象領域(量子力学)について書かれていますが、こんなに日本語って美しいものだったのだ!と感じさせてくれます。それは本人の育ちの良さ、教養が高いことも要因だとおもいますが、もしかしたら戦時中に書かれたということも関係があるのかも。本当に研究に邁進できているありがたさを感じつつ話しをしているような気がします。自分には到底真似のできない日本語で、同じ(同じではない?)日本人とは思えません。すばらしい人だ。
今まで湯川先生について、日本を飛び出して世界で認められた人のイメージを勝手に当てはめていたのですが、正反対な人柄に触れることができて良かったです。湯川先生、先入観で誤解していてごめんなさい。<br>先生の人生観やら小さい頃の記憶などがエッセイ風で読みやすい文章でつづられています。本全体が、いろんな人(両親や恩師などなど)への感謝に彩られています。<br>読み終わった時に、宮沢賢治の童話か上質の絵本を読み終えたような、不思議な優しい気持ちになりました。<br>タダの天才?ではなく、本当に品の良い人だったのですね。