精霊についてここまで書く事ができるのは著者しかいないであろう。読み終え充足感が広がった。能楽の舞台を見に行く楽しみがまたふえ夏の薪能はこれまでにない満足感を得た。
<br />個人的感想はここまでとし、この本の幽玄的な世界観には好き嫌いがはっきりするであろう。
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<br />精霊シャグジは国家権力の確立とともに表舞台より姿を消すが、著者はこの精霊が芸能・技能の守護神「宿神(シュクジン)」として力強く生きつづけたと考える。著者のフィールドの世界観は圧巻。
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中沢新一「精霊の王」を読み終える。もう一度目を通すつもりだ。室町中期、能楽の金春禅竹による「明宿集」なるお話をもとに「後戸」というキーワードをもって自然の内奥の力と、それを整序する権力の関係がこの書のテーマと言ってよいだろう。<br> その本筋の傍らに、一貫して、自然の内奥の力を縄文の「野生の思考」に見いだしたいという強い著者の欲求が流れている。が、しかしそれを直球で求めるのは困難なことは重々分かっている。ひたすら地道な神話の構造の比較検討のなかからなにかを浮かびあがらせるしかない。かくして、縄文の「カミ」とでも言える「宿神=シャクジ」(「シャグジ」を正面から扱った柳田国男の「石神問答」は彼の民俗学形成の端緒となった)という存在が芸能・技能を媒介にしつつ、生き残っている姿を突き止める。そして、さらにそれが国家のシステムとの関係において日本の東と西(長野の諏訪においてはミシャグチ信仰が公然と存続しているように、東方面では鎮守様の片隅にひっそりと佇んでいる。一方で、国家システムの管理が周到になされた西の方面では「シャグジ」は表面ではことごとく消滅しているが、実は被差別部落の地域の鎮守様として存続している)において扱いがことなっていることを証左に、自然の内奥の力=宿神=シャクジの姿をあぶり出しているのだ。では、はたして縄文の野生の思考が浮かび上がったか・・?さてさて。<p> 私にとって、この書物はおもしろかった。沖縄の斎場御嶽(セーファ・ウタキ)へ行ってあらためて、山、風、水、樹木に宿っている力を全身で感じ、受け止め、そして、身もうろたえるほどの圧倒する「カミ」の力のシャワーを浴びた、そんな私にとって、この書物はどれもこれもビンビン伝わるものだった。が、もちろん世俗権力からの逃避的な結論には「やはり中沢くん」とも思った。
「知の考古学者」たらんとする著者の日本古層の神をめぐる刺激的<br> な論考。儒仏の流入以前の、またそのカウンターとして成立する神道 <br> 以前の素朴な信仰が「石神」として現代にも露頭を晒している。<br> その鉱脈をさぐり「日本とは何か?」という問題に重要な目配せを<br> してくれる。<br> <br> ただ文章があまりにも詩的に過ぎ、好き嫌いがハッキリと分かれる<br> だろう事は想像に難くない。ただ重要なものは嗜好に関わらずに<br> 読まれて行くだろう。