1,2と同様、 幾つもの間接的な手掛かりから一つの答えをつむぎ出すミステリー小説の解説のような展開は健在である。
<br />本巻は前巻ほど日本の歴史学の三大欠陥に対する批判が長々と語られなかった分、読みやすく引き込まれた。
<br />
<br />日本の「怨霊信仰」は、前巻までの解説で逆説の日本史を読む上で欠かせないキーワードとして頭の中にインプットされた。
<br />そして本巻では、「言霊信仰」が新たなキーワードとして登場している。
<br />
<br />これらのキーワードは日本史を読み解くだけでなく、近現代日本の問題の根本原因を考える上でも重要なキーワードであることがわかる。欧米や中東の行動原理を理解する上でユダヤ教、キリスト教、イスラム教の思想を知ることが不可欠であるのと同様である。
<br />日本は「無宗教国家」という幻想に惑わされすぎて本来の姿を見失っているように思う。
<br />本書のように古代の思想を考慮して歴史を読み解くことが、現代の日本のあり方を考える上で貴重な財産になるはずである。
<br />歴史は繰り返すのだから。
『万葉集』は誰が何の目的で編纂したのか、自明のことではない。他の人がそうであるように井沢もまた推測で次のように言う。
<br /> おそらく「原万葉集」にあたるものは、当時著名な歌人であった大伴家持の手に入り、家持はこれに自分や一族の歌、さらに地方で採集した歌などを加えて、一大歌集として完成させたのではないか。
<br /> しかし、家持は国家の罪人扱いされていたので、そういう人間が編纂した、しかもその歌の含まれている歌集、つまり「反政府詩集」を、どうして世に出すことができるだろう。『万葉集』はその成立から見て、犯罪者の私家版だったのである。だからこそ成立の事情は「正史」に載せられないのである。では、どうしてその私家版が世に出てもてはやされるようになり、「勅撰集の先駆」とまでみなされるようになったのか。
<br /> それは怨霊を恐れてのことである。鎮魂のためである。種継事件に連座した家持の罪を許し名誉を回復させたのである。だとすると、『万葉集』の公刊(?)もその目的に添ったもの「鎮魂のため」ということになる。
<br /> 折口信夫もまた「万葉集鎮魂歌集説」を唱えている。鎮魂の第一義は招魂であり、魂鎮めの意義を持ってくる。それはまた長寿を祈る「万歳を言祝ぐ歌集=万葉集」ということになる。
<br /> 梅原猛もまた『水底の歌』で柿本人麿は平城天皇の時代に、大伴家持の復権に伴って、名誉回復し正三位を追補されたという。
<br /> 万葉集の謎に迫る歴史家の思いきった説が展開されていて、迫力がある(雅)
このシリーズを第7巻まで読みましたが、一番面白く読めたのがこの巻でした。
<br />
<br />道鏡に関しては、僕も思いっきり「怪僧」のイメージだったので目からウロコです。
<br />結構いいヤツだったんですね、彼。
<br />井沢氏がくどいほど言っている「宗教的・呪術的側面の軽視ないし無視という歴史学会の欠陥」「史料至上主義の落とし穴」についても、個人的にはこのくだりが最もスンナリ飲み込めた気がします。
<br />
<br />