村上春樹の旅行記の中では短めで他の旅行記よりもトーンが暗い。ただそのじめじめとした暗さが効果的に働いているように感じる。実際にギリシャ・トルコに行ったことがないので現地の雰囲気も暗い感じなのかどうかはわからないけれど。
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<br />さすがというかこの旅行記でもその場所にいってみたくなる巧い文章を書くが、分量が少ないのでどうも尻切れトンボといった印象をぬぐえない。え、もうトルコいっちゃうの?これでトルコ編終わり?といった感じである。
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<br />村上春樹の旅行記ではいつも感じることだけれど、どんな劣悪な環境でも「こういうのもちょっといいかも」と思えてしまうことがあるので注意が必要である。
作家・村上春樹氏による、ギリシア・トルコの旅の記録。
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<br />ギリシア編の中心テーマはギリシア正教の聖地アトス。
<br />トルコ編は・・・よくわからない。
<br />アトスのような目的もなく、トルコという国を引きずるように
<br />駆け巡る。(アトスは足だったが、トルコ編はパジェロ。)
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<br />明るい話題はあまりない。
<br />でもそれは村上さんの語りのせいではない。
<br />対象がそうさせる。空気が伝わり、気分も伝わってくる。
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<br />章扉を除いてギリシア編79ページ、トルコ編98ページ。
<br />まえがきもあとがきもない、薄手の文庫本。ややハードボイルド。
著者がなぜ聖地アトスに赴いたのかの理由は、はっきりしている。「外国人の異教徒がここに入るためにはギリシャの外務省から特別ビザを発行してもらう必要がある」。出版社がその手続きをしてくれて、もちろん経費は出版社持ちで印税が入るなら、彼ならずとも話題の地に出掛ける気になる。宗教には詳しくない、イコンにも興味がないと言う村上が、編集者とカメラマンを引き連れ、楽しむ様子も見せず中身の薄いアトス巡りを繰り広げる。
<br />だからギリシャ正教について書かれていることも上滑りしている。「キリストという謎に満ち人間の小アジア的不気味さをもっともダイレクトに受け継いでいるのがギリシャ正教ではないかとさえ思う」。このあたり、新約学者・田川健三の受け売りであろうことが見え見えだが、田川はイエスの言が「不気味さ」を孕んでいるとは指摘しても、イエスという人間が不気味だと言っているのではなく、無責任な「引用」に近い(そうでなければイエスの「不気味さ」とは何なのか。しかも「小アジア的」とは)。
<br />ギリシャ正教が「形而上学的な世界観というよりは、もっと神秘的な土俗的な肉体性を備えているように感じられる」のは自由だが、神学・形而上学(内)と生活・儀礼(外。村上の言う「肉体性」)を今日なお一致させようとするのが、アトス山に象徴的に見られるギリシャ正教(少なくともそのありうべき姿)ではないのか。言があまりにも空疎。彼らに応対する修道僧たちの多様な人間臭さの描写だけが読める。
<br />この本がつまらないのは、元来、大型写真集を念頭に置いた出版社の「半」持ち込み企画である点に尽きる。写真に寄り掛かっており(そのほとんどが文庫版には不収録)、言葉が自立していない。カメラマンを同行しての急ぎ足のトルコ編にそれがより明瞭。あえて辺境を目指すなら、高野秀行のように腰を据えて単独で赴いてもらいたいものだ。
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