司馬遼太郎作の魅力の一つに、作者のつぶやきがある、と思うのは私だけだろうか。龍馬でも多々つぶやいておられるが、この道三の物語でも....相当に司馬氏のお気に入りの人物だったのか.....この間の冒頭では庄九郎と茶飲み話にふけるなど、相当楽しんでおられる司馬氏の姿がかいま見えて微笑ましい。もちろん、ここにいる道三=庄九郎はこの物語の後半の怪物めいた描かれようとは異なり、相当に魅力的であり、司馬氏ならずとも茶飲み話の一つもしたくなる(うそ!こええよ、そんなの!)<br>さて、この巻の後半、いよいよ道三が蝮化し、土岐頼芸を追い出す段の手前で司馬氏はこんなような余話を挿入している。人間40を過ぎるころには愛憎が深くなるようだ、このころの庄九郎と同世代の筆者も...<p>え~!司馬さんが40代の頃の作品なんだ~!なんかすっごい。<p>書かれた時代は高度成長期のまっただ中で、古い日本を変えてやろうという戦中派世代が鋭い気概に燃えていた頃だったろう。戦国のスーパーマン、松波庄九郎の姿はこのころの植木等的サラリーマンにはスゴイ魅力的だったことだろうなぁ。そのスーパーマン庄九郎もこの巻の終わりではかなり哀しい。いつまでも若々しい華やぎのあるお万阿が素晴らしい。
この巻では、斎藤道三の守護代時代からの後半生が描かれています。成り上がりの道三のイメージとは異なり、善政・知略で国を平らげていく課程が描かれています。つまり、この本の「国盗り物語」というタイトルの主題を描いている部分なのですが、この時期の道三は私の持つ「ギラギラした」道三の魅力はありません。<p>しかし尾張の信長の父親である信秀が魅力的に書かれていて、後の信長編に続く導線を引いています。早く信長編を読みたいと思わせる巻でした。<br>また「雑話」という章があるのですが、ここでは司馬氏自身が道三と世間話をするところを想像する、という面白い趣向があります。ここでの司馬氏と道三のやりとりは、この巻での一興でした。
『蝮(マムシ)』の異名に相応しく、周到な計画を立てる頭脳!そしてチャンスを待ち、チャンスが来たら一気に掴み取る行動力!その2つを併せ持つ斎藤道三の半生。美濃一国の大名にまでなったまさに『国取り』の物語です。私が司馬遼太郎ファンになった本の一つです。先が見えず既成のシステムがことごとく古臭くなっていく現代に通じる『戦国』の物語の中でも、長編を感じさせず、一気に読める物語です。斎藤道三が自分の隣に居る様です。