本書まで私はこの「ローマ人の物語」は史実をもとに書かれていると思い込んで読んでいた。しかし本書で疑問が生じた。本書において、アウグストゥスは詩人オヴィディウスを「愛の技術」と題した詩集を書いた罪で辺境へ追放したが、「愛の技術」は禁書にはならなかったと書かれている(P.80)。しかしオヴィディウス自身によれば「愛の技術」は禁書になっている(「悲しみの歌/黒海からの手紙」 木村健治訳 京都大学学術出版会 P.245 ちなみにこの本は参考文献としてあげられている)。何故このような齟齬が生じているのかが理解できない。‘論理性を欠いている’のは誰なのか。原典の解釈の違いなのか、あるいは追放されていたオヴィディウスは知らなかったのだが、実際は禁書にはなっていなかったという記述が他の資料に残っているのか(残っているのであるのならばそのことを本書に明記するべきだと思うが)。このことは決して瑣末なことではない。なぜなら「愛の技術」を禁書にするかしないかでは、本書の主人公であるアウグストゥスの性格が大きく異なってくるからだ。ただ‘老齢ゆえの、癇癪’で追放したのか、それとも一般人には計り知れない理由があったのか(私はその理由を推測することが著者の腕の見せ所だと思うが)。そのようなことを考え出すと「ローマ人の物語」はどこまでが史実でどこからがフィクションなのかが分からなくなってくる。
<br /> もっとも、この物語を最初から‘小説’として割り切って読むのであるのならば何も問題はないが、史実をもとにして書かれていると誤解していた私はすっかり冷めてしまい、本書を最後にこのシリーズを読んでいない。
以前、著者は同シリーズでハンニバルの言葉を借りてこのような趣旨を述べていた。『いかに繁栄した組織でも、じわじわと襲ってくる内臓疾患には克つことが出来ないものだ』と。
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<br />パクス・ロマーナを襲う内臓疾患に、アウグストゥスはどう立ち向かい、いかなる結果を招くのか。
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<br />『パクス・ロマーナ』の中でもこの下巻が一際躍動感に満ちているのは、制覇したはずの周辺民族の再勃興と、ローマ帝国境界線の再考慮がとてつもない大事業だったことを匂わせているからだ。そして、アウグストゥスの老齢化とともに悩まされる2人の偉大な参謀の死と、子孫らの暴挙。
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<br />このアウグストゥスにしてこの結果。栄枯盛衰これ極まれり。
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<br />そして、われわれ読者は改めて、父ガイウス・ユリウス・カエサルの偉大さを思い知らされるのである。
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<br />次なる主役はティベリウス。彼に肥大化したローマ帝国は指導・運営できるのだろうか?
数々の改革を成し遂げ、ローマに平和(パクス)をもたらしたアウグストゥスが、自らの家族の裏切りや後継者の早死に悩まされます。<p>娘や孫が、アウグストゥス自らが反対の論陣を張っていたにも関わらず浮気に走ったり、後継者に指名した者が次々と病気や戦死により倒れたりというような不幸が襲います。<p>自らが才能を見出されて後継者に抜擢されたアウグストゥスが、なによりも自らの血を残すことにこだわったのは、人間の業なのでしょうか。結局、一度は追放した血縁関係のないティベリウスが次期皇帝となるのは運命の皮肉としかいいようがありません。<p>パクス・ロマーナを実現した、神君アウグストゥスの政治的幸運と個人的運命の悲運。人間ドラマとしても楽しめました。