彼女は『鈴木純』でいることに、きっとギリギリだった時『南条あや』を産み落とした。
<br />実の父さえも知らない場所で独り、震えて泣きながら、多分血まみれの中『南条あや』を産んだのかもしれない。
<br />この日記が、あんまりポップだから、彼女の孤独とSOSを忘れそうになる。
<br />彼女が、あんまり面白いことを書くから、故人ということをフィクションに思ってしまう。
<br />彼女の明るさに、安心して甘えてしまう。
<br />
<br />でも、2回目に読んだとき、私は淋しかった。この日記を深夜、独りアパートの部屋の中で書いている彼女を想うと、苦しくなる。
<br />彼女はきっと、両親のことも、友人のことも、愛していたと思う。
<br />父親に愛されていたことも、きっと重々わかっていたのだろう。
<br />愛し愛してくれる人が、いつか離れては行きやしないかと、恐ろしかったのかもしれない。
<br />子供時代の孤独のトラウマが、きっと彼女を置き去りにしたのだ。
<br />彼女を治せたのは、病院でもクスリでもなかった気がする。
<br />日記中のような生活を続けていれば、遅かれ早かれ、亡くなっていただろう。
<br />少なくても、長生きは出来ない、絶対。
<br />彼女に必要だったのは、母性に抱かれて、安心して眠れる環境だったのではないかと、そんな気がする。
<br />たとえそれが母親でなくても。
<br />
<br />日記中にあるが、彼女は年上の女性を慕っている。
<br />たとえば担任の女性教諭、町田あかね氏、担当の女医、女性看護師、年上の女友達。
<br />彼女が亡くなるまでの間、ずっと欲しかったものは、恋人でもビタミンRでもなく“母性”だったんじゃないだろうか。
すこし論点がかわりのですが
<br />この0m00、本を読みまたHPのあ”「なり以前に知る事となったのですが。彼女の治療にあたった医師達への不信と憤り、本当に彼女の心の奥底にある絶望へ目をむけ、治療へと導く意思があったのかとおもってしまう。女子高生に翻弄されるまま投薬していた事。当然予期される大量服薬に対して、なんも危機感はなかったのだろうか。ある意味死を幇助している彼ら医療関係者の無知(境界性人格障害者への=投薬治療に効果には極めて効果を期待はできない)という調べればわかる事実とそればかりかODなどの手段に利用されるいう危険性も含むというは当然考えられたのではと素人の私でさえ普通かとんがえる。この本は女の明るくポップな口調でリスカ OD その他の日々のことが淡々と 彼語られているのだが 救いを求めることに落胆以外みえないでいたのだとは かんがえられないか。
<br />あやさんの日記をみて己の行動をわかってくれなどと甘えている事に恥をしってほしいものです。
<br />彼女がそれを望んでいるとは思えない。他力本願より自分の主張をなさればいいのでは。。。。。
<br />
「自分で自分のことを可哀相に書くのはイタイ」と
<br />思いすぎたんじゃないでしょうか
<br />小さい頃からいじめに遭い
<br />自分を見つめ続け他人を見つめ続けた彼女だから。
<br />文章の巧みさに隠され隠されして
<br />誰も気付けなかったけれど
<br />決して彼女はこの文体のように
<br />ポップな表情で日記を書いていたわけではないだろう
<br />彼女の死後にこの日記を拝見しました。
<br />彼女を救えなかったことをとても残念に思うけれど
<br />この日記を読まなければ彼女のような人は救えないなと思った。
<br />
<br />余談ですが…
<br />傍に自分の愛する人がいればいる限り
<br />絶望的な気分に追い詰められていったんじゃないかと思います
<br />誰も自分の本質をわかってはくれない
<br />それはあたりまえのことですが
<br />彼女には耐えられないほど怖かったんじゃないかな