~ええもんを読ませていただきました。数十年前に読んだ本ですけども、昔を想い出してまた読ませていただきましたが、フルトヴェングラーのレコードよりも楽しめるかもしれませんなあ。私の覚えとるフルベンはんの演奏は、自在にテンポを設定してロマンや感傷の極みのなすがままに、ベルリンやウィーンで演奏されたベートーヴェンやブラームスのレコードですが~~、これをフルベンはんは「曲をいったん解体して、有機的な生命体を構成する作業」とおっしゃる。レコードでの解釈とこうして書きはっとるエッセイ(実際には、講演抄録のように読めます)とが矛盾しとらん点が真摯ですわな。「全て偉大なものは単純である」「いい演奏は、たった一つしかない」とか、科学者にも嬉しいようなことをいうてくれはりますが、彼の~~音楽解釈が「単純」なものであったんかどうかは私にはちと疑問やけどもなあ。もし全て「単純」になるのなら、どなたの音楽解釈も極まるところ(いいものならば)ひとつに収斂するのなら、演奏は究極の純音楽的なものになって行くと思いますけど・・・、たとえばカルロ・マリア・ジュリーニの晩年の演奏のように。<p>とはいえ内容は解釈の話だけでなく、バッ~~ハの偉大さ、ニーチェのワーグナー攻撃についての文学史家的考察(ほとんど学者的な記述)、ベートーヴェンの第5交響曲の単純な偉大さの音楽史的、音楽語法的論述、ブルックナー・ヒンデミットのよさの紹介と、文学的な立場からも大変興味深い本ですわな。意外とマーラーが出てこんけども、まだマーラーは今ほど注目されていなかったんでしょうか。上述のよう~~に、科学者の立場からみても(ナチの時代という極限下の創造的作業ということもあるんやろうが)大変興味深い。「偉大な創造活動は時代や分野を超えて普遍的」と私は本作を読んで感じました~
訳が古い(1957年)ので少し読みにくいが、去年文字を大きくした改版になったことと漢字のルビが多いことで大分改善している。収録されている講演・論考の表題は「すべて偉大なものは単純である」「バッハ」「ベートーベンの音楽」「ベートーベンと私たち」「『フィデリオ』の序曲」「ロマン派について」「ブラームスと今日の危機」「ワグナーの場合」「アントン・ブルックナーについて」「ヒンデミットの場合」「作品解釈の問題」「ヴィーン・フィルハーモニーについて」「音と言葉」である。これらの表題を見ただけで買ってしまったが、正解だった。音楽に関しては素人である私でも、著者の言う芸術の精神みたいなものはよく分かった。クラシックの道案内にも使える。
収録されているのは無論フルトヴェングラーの書いたもののすべてでなくたんなる抄訳である。「ベートーヴェンと私たち」の章で『第5交響曲』が分析される。なんと小節1つ1つが楽曲全体の≪これしかありえない≫式の進行に支配されていることかとわかる。「一つの音楽作品には、ただ一つの把握の仕方、ただ一つの解釈の方法しかない」(「作品解釈の問題」)。彼の芸術観も同様。彼は≪今日の危機≫を叫ぶタイプに属する。聴衆も演奏も危機に瀕していると言う。その証明のように、彼はナチ時代ドイツに残りドイツ人に向けて演奏した。彼の演奏があまりに広く多くの人に感動を惹起するのは、彼が徹頭徹尾「ドイツ」(部分)に徹したからかもしれない。「アントン・ブルックナーについて」の章で、「普遍的な理解しやすさ」と「普遍妥当性」が違うと述べる。前者は「個人主義」と変わらない。そもそも物事を突き放し「歴史的に見る」冷めた眼は、価値づけ行動する主体でなくなった「人生の傍観者」のそれとなる。それは今日の「科学」と符牒をあわせている。(「楽譜に忠実な演奏」への彼の批判を思い出す。同時に≪国境を越える≫らしいお涙頂戴のロック音楽とその社会運動も私は思い出す。)「すべて偉大なものは単純である」という命題も、「単純」とは「全体」の概念を前提としている。われわれが接するのはいつも部分(小節・地域)でしかないが、だが把握(合一)は本来全体(楽曲・共同体)になされねばならない。「個人の魂」(90ペ)のあり方もそう。偉大さ・共同体には「献身的」(25ぺ)であれと言う。これは彼が随所で(本書以外でも)意識するニーチェの芸術観と共通するが、「ワグナーの場合」において音楽へのニーチェのダダッ子ぶりを暴き立てる文調は精確・痛快をきわめる。また1つニーチェが好きになれる。