アメリカを「性の特異国」「暴力の特異国」として位置づけ、建国時から現在進行中の対テロ戦争にまで至る歴史を概観し、アメリカという国の抱える問題に迫っていく。切り口は実に鋭く、分析も冴え、面白いの一言に尽きる。
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<br />アメリカは国の内外を問わず、共同体にとって脅威になりうるものに対し、「リンチ」的暴力をもって応じてきた。著者は、そのようなアメリカが現在抱える「暴力の悪循環」を断ち切るには、「リンチ」の対象となってきた「他者」の記憶とどう向き合うか、いかにマイノリティの記憶と向き合うか、といった「記憶の民主化」が不可欠であるという。
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<br />「記憶の民主化」は、米国内においては、インディアン・メモリアルやベトナム戦争記念碑の事例のように、着実に進展を見ている。しかし、原爆展示論争に典型的に見られるように、記憶の対象が「国内か国外かの違いで記憶に対する寛容さが著しく異なるアメリカの姿」がある。このような「記憶のダブルスタンダード」をいかに破っていくか。現在世界が抱えるアメリカという問題を解決するには、著者も言うように、アメリカ自身の認識を変えるべく、対話を続けていかねばならないだろう。
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例えば、P185「死刑になる子どもたち」を読むと、「暴力で問題を解決する」というアメリカの伝統的スタイルを、端的に知ることができます。この過剰なまでの自己貫徹性を、理想主義と見るか、融通がきかないと見るかで、今後の日本社会の在り方も変わってくると思います。まあ、多数派は「融通がきかない」と評価するでしょうけど、少数派は自己貫徹性を御旗に、「理想主義」を迫ってくるでしょう。日本社会として、どうバランスを取るか、ですね。あまり、「理想」とか「論理」にこだわらない方が、良いとは思います。
過激なタイトルで随分損をしていると思うが、内容そのものは一般に考えられているような、なにごとも日本よりも進んだ参照すべき国としてのアメリカというイメージを中和する至極妥当なもの。
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<br />つまり、大統領選挙の際に露になるように乱暴に言えば一部大都市とその他の田舎の価値観の対立が何に由来するかアメリカの出自に戻り歴史的事実から拾っていこうというものにすぎない。
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<br />アメリカには建国以来の血生臭い歴史、そして宗教という強力な蓋を、建国時に掲げられたきれいごととして(そして今では普遍的なものとなった)理念が外そう、緩めようとする両者の間の揺らぎがあり、それが自由と保守の対立、ダイナミズムを作り出していることを明らかにしている。それが具体的には、アメリカの性(ヴィクトリアニズム、宗教的戒律とその解放の鬩ぎあい)の問題であり、暴力(リンチ、死刑判決)に関する歴史となっている。なぜ大統領選における争点として、同性愛や中絶のような日本人からすればどうでもいいような問題があがるのか、読み終わったとき理解できるようになっているだろう。
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<br />特に、暴力というよりは「人種差別」の歴史として、陪審員制度が変革、結実していく姿はかなり衝撃的です。