下巻は上巻と異なり、空海が成功の階段を駆け上る話なので
<br />一種痛快である。
<br /> しかし、小説であるのであれば、もう少し、空海の起こした
<br />奇跡であるとか密教的な話を書かなければ片手落ちである。
<br />筆者はおそらく非科学的であると批判されることを恐れて
<br />そのような話を書かなかったのであろうが、それなくして空海
<br />の本質に迫ることは不可能である。
<br /> ただ、上巻にしても下巻にしても空海にまつわる史実や史料
<br />がふんだんに盛り込まれているのでこれから研究して行こうと
<br />いう人にとっては良いガイダンスになるであろう。
<br />
これまで何度か高野山に行ったときに知った数々の伝説、お大師さんは子供のときに一切の衆生を救う誓いを立てて崖から飛び降りたところ助かったとか、中国から帰る時に布教の場にふさわしいところへ落ちろと願をかけて投げた鉾(?)が高野山の木にひっかかっていたとか、なにより今も生きて衆生救済に励んでおられるとか、ありえないとツッコミを入れたくなるような超人話を21世紀の人々にさせる、お大師さんとは一体どんな人なのだろうと思ったのが、この本に手をとったきっかけでした。<br>それまでの私はまさに伝説の聖者そのものの空海を想像していました。ですから上巻で思いっきり性欲話が、しかも空海がそういうことに人一倍関心があったはずだという説がぶちあげられた時点で、私の中の聖者「お大師さん」としての彼のイメージは傷つき、かなりへこみました。<br>ところが下巻も佳境に入り、泰範の代筆で最澄に絶交文を書くくだりの頃には、さすが空海、これくらいいやらしくてナンボだ、といった、司馬氏の描く「人間空海」も好きになっていました。<br>聖者としての彼を期待して手に取った本でしたが、この本での彼は(その後読んだ他のどの空海本にもなかった)平安初期を豪快に泥臭く生きた「人間空海」そのものでした。<br>「お大師さん」と「人間空海」が同一人物として私の中に溶けるには時間がかかると思いますが、この本で私の空海像はぐっと厚みと深みを増しました。<br>最初は筆者の感想や分析が多く、感情移入しにくかったため、暇つぶしに読む本だなという程度でしたが、後半(つまり下巻)はぐんぐん引き込まれて一気に読んでしまいました。司馬氏の本は初めてでしたがおもしろかったです。
<br>唐で真言第八祖となった空海。<br>それがいかに凄いことか、<br>単に「留学してきました」というレベルではないのですね。<p>そして帰国後の空海。<br>桓武、平城、嵯峨と代替わりする朝廷の政治状況が<br>空海の生き方に影響を与える。<br>宗教界にも立身出世という言葉があるのなら、<br>決して政治を無視できないのでしょう。<p>先に帰国して密教の第一人者とされた最澄との確執。<br>なぜ二人の間柄は悪くなってしまったのか?<br>なぜ最澄からの経典の貸借依頼を空海は断ったのか?<br>色々な重荷を背負った者同士は、<br>なかなか率直に意思の疎通を図れないという見本のようです。<p>空海と「お大師様」は別なのだということに<br>納得できるまで時間はかかりましたが、<br>さすが司馬遼太郎、私のような凡人にも<br>空海という偉大な人物の実像を見せてくれました。<br>