あの永井均さんが、あの西田幾多郎を論じる、という〈私〉が歓喜するような事実をこの哲学入門シリーズの続刊予告で数ヶ月前に知って、ひたすら心待ちにしていたが、ついに出た。短いので一挙に読んだ。おもしろい。
<br />近代日本における哲学の大天才(裏を返せば一般人の思考空間における超変人)である西田(主に前期)の哲学的言語表現の意味(あるいは極限的な無意味?)を解説しながら、永井さんは、やはり、というべきか、むしろ自己一流の哲学的な思索を繰り広げていく。主体が確たる自己意識を持つことのないまま、様々な行為や出来事がそこら辺で断片的に生じるままに、ただ存在している、という「無の場所」という日常から、やがて個別の「私」たちが発生してくる瞬間を論理的に把握しようとする「開闢の哲学」の試みが、前作(『私・今・そして神』)に引き続いて実践されているのである。
<br />西田哲学を分析的にクリアーに解説していたと思ったら、気がつけば永井哲学がずんずん進行している。哲学的ドラマ。永井さんはもう西田は論じないと思う、と書いていたが、いやもっと観てみたい。
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このシリーズの最終巻を飾る快著。西田の「純粋経験」に、デカルトの「cogito ergo sum」と、ウィトゲンシュタインの「感覚日記」との両面から光を当てる。デカルトのcogito ergo sumは体験と言語を相即させた「過失犯」だが、ウィトゲンシュタインは、言語ゲームは体験に先立つから、名前をもつ体験は言語に従属するとみなす言語ゲーム一元論の「確信犯」。そして西田は逆の「確信犯」で、言語ゲームは「純粋経験」から派生すると考える、体験一元論(p46f)。
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<br />西田は『善の研究』の「純粋経験」論を、『働くものから見るものへ』の「場所の論理学」へと発展させたが、永井氏はそれを、一種の言語哲学として読み解く。「私」とは、「事物や出来事が<於いてある>場所」、つまり、世界と向き合う「主体」ではなく、世界がそこ「においてある場所」なのだ(67)。西田が主張した、主格ならぬ与格としての「場所としての私」は、永井氏がこれまで個人としての「私」と区別するために苦労して作り出した、あの山カッコ付きの私、つまり<私>と重なる(97)。そして、西田の後期哲学の「我と汝」論を、言語ゲームと他者の同時的成立の議論と捉えることによって、「絶対無=場所としての私」という田辺元も理解できなかった西田のテーゼを読み解く。永井氏の独在論とオーバーラップするこの第3章は、難解だがスリリングな魅力に満ちている。