よくある小中学校学園物として、物語は始まる。誠実に、丹念に、物語はつむがれる。だが、「提供」という不可思議な(しかしある予感を持たせる)概念が、次第に物語りに影を落とす。やがて、「ポシプル」という言葉が、予感めいた影に実態を与える。そして、とうとう「クローン」という、身もふたもない設定が明らかになる。
<br /> でも、物語は急がない。ヘールシャムの提供者ジュニアたちが、自然に認識していく速度にあわせて、描写されていく。作者の素晴らしい計算。心憎いまでの抑制。イシグロの並々ならぬ力量を感じる。
<br /> ルースは、よくいる女王様タイプのコンパ主役。いじめられっ子だったトミーも、生々しいキャラクター。だから、この物語の世界は、もうすでに主題を語っている。彼らは、腎臓や肝臓や心臓や網膜の単なる集合体ではない。数ページ読んだだけで、それは明らかだ。
<br /> 理屈ではない。この世界に理屈を言っても仕方ない。この世界はそこに存在する。私達は、今や苦役を終えて「提供者」となっていくキャシーに、ただ涙を流すだけだ。
<br /> 土屋政雄氏の邦訳はすばらしい。そもそも日本語で書かれたのではないかと思うような自然な語り口に仕上がっている。
1990年代末の英国。「介護人」を務める31歳のキャシーは、ヘールシャムで過ごした青春時代を思い返す。特に仲がよかったルースとトミーの二人の友。彼女たち3人をはじめとする子供たちは「提供者」として生きるよう定められていた…。
<br />
<br /> 「わたしを離さないで」の描写にはけれんみは一切なく、主人公たちは抗うこともなく自らの過酷な運命を静かに受け入れているかに見えます。SF的な設定をもつこの小説を遺伝子工学など医療技術が進んだ現代社会への警鐘と捉えようとする読者もいるかもしれませんが、ならばこそキャシーたちの意外なほどの無抵抗ぶりには得心がいかない思いが募るのではないでしょうか。
<br />
<br /> キャシーたちのような「短命族」(と私はあえて呼びますが)と、彼らの犠牲のもとに生きる「長命族」(これもイシグロの言葉ではありません)とが対比された物語の中で私が強く感じるのは、命の優劣はその長短にはない、という至極当然のことです。
<br />
<br /> その長短にかかわらず、命はいつかついえるものです。いかに短くとも充実した命を全うすることができるのであれば、その命はいたずらに長い人生より価値がある。だからこそイシグロは抑制した文章で、キャシーやトミーたちに平凡な人生経験---ほろ苦い三角関係や激しく豊かなセックス---を与え、終わりの日に向けて彼らなりに濃密な人生を歩ませようとする、そう私には思えるのです。
<br />
<br /> 鬱々とした老年の日々を送っているかにみえる「長命族」よりも、彼らのために生きることをアプリオリに決められた「短命族」のキャシーたちにこそ、輝く日々がある。その哀しいまでに美しい人生の果てが、文字通り最後の1ページに込められていて、この場面は幾度読み返しても倦むことがありません。
<br />
<br /> SF的設定はあくまで書割にすぎません。この小説の眼目は、私たちが人生を深めようと日々どこまで努力しているか、それを問いただすことにあるのです。
<br />
<br />
小説の中盤で明かされる秘密自体は、そんなにショッキングなものではありません。他の人も言ってますが、粗筋や書評を見て「そうかも」と予想していたネタでした(20年以上前にコバルト文庫で読んだ新井素子さんの小説でも、同じネタを扱っていたのを思い出しました)。
<br /> だから、そういうSF的味わいは2次的なものです。(ただ、この世界はカセットテープとかウォークマンとかとても古臭いものに満ちていて、下手すると80年代の英国では、と思わされます)。感じるべきは主人公キャシーの少女らしい瑞々しい感性や、得られたかもしれない大切なものをほんの少しの選択ミスから失ってしまうこと、それはもう取り戻せないと思い知ること、そんな喪失感、はかなさでしょう。非常に繊細な文章で描かれていて、傑作だと思います。
<br /> ただ、実際的な話としては不思議に思います。主人公達は普通に会話し、車の運転をし、そして、外観も街で一般人に埋没できるもののようです。なのに、何故、自分達の運命に抗おうとしないのでしょう。教育のせいだけとは思えない。
<br /> 主人公の視点から語られるのでわからないのですが、やはり彼・彼女は知能その他で実は異なっていたのでしょうか。ヘールシャムで力が入れられていたのは詩・美術などの芸術分野です。わたしはエイブル・アートという言葉を思い出しました。この本の翻訳はとても美しい日本語ですが、もしかしたら、使われている熟語などは、英語だと、もっと平易な言葉なのではないでしょうか。