「人間って誤訳を指摘されるとまずみんな傷つくんですよね」(p.97)ってのは本当だな、と思う。致命的なミスみたいに感じられてしまうのか。
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<br /> 後は、「アメリカ人は大きくて分厚くて、みっちりと活字のつまった本のほうが好きみたいです」「日本人があることを論じるときに、小説よりも論説文で感じるんだけど、起承転結があったら四段落使います。それが英語だと、起承転結がワンパラグラフなんですね」(p.104)あたりもなるほどな、と。
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<br /> ダジャレがあったらルビを振るぐらいで、置き換えはできない、というのが「越えられない一線」(p.109)というあたりや「翻訳というのは濃密な読書」(p.199)なんてところも共感する。愛する田中小実昌さんのチャンドラーの翻訳はまだ古びていない、と褒めてくれているのは嬉しかった(p.229)。
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<br /> すでに翻訳されていた村上訳のカーヴァーと柴田訳のオースターの小品に、それぞれ村上春樹さんがオースターを、柴田さんがカーヴァーを訳して対比させるという趣向も素晴らしかった。当たり前だけど、やっぱ、うまいな。ふたりとも。
翻訳について興味のある人はもちろん、村上春樹、柴田元幸のファンはまちがいなく楽しめると思います。ただし、柴田先生もおっしゃってますが、方法論的な、ある意味で翻訳「道」的なことは一切といってよいほど含まれていません。(まるっきり書いてないわけではありません)
<br />むしろ、翻訳に臨む楽しさ、小説のテキストの自立性、文体の問題などを二人がたっぷりと語らっています。
<br />彼らは、非常に文章表現に愛情を持っていて、それが翻訳という必ずしも苦労の少ないとは言いがたい仕事をたくさんこなす原動力になっているんだなぁということがしみじみとわかります。
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オースターとカーヴァーの「競訳」がなされていることが、本書の面白い特徴の一つである。村上がよく訳しているカーヴァーと柴田がよく訳しているオースターの短篇の、原文・村上訳・柴田訳が掲載されているのだ。<br> これらを読み比べ、それについて交わされる質疑を読むだけでも充分勉強にはなるけれど、せっかく原文が掲載されているのだから自分でも訳してみなくては勿体ない。私は翻訳については素人だが、自分で訳してみることで二人の訳文の細かい違いを敏感に感じることができたし、何よりも、両者の強調している翻訳そのものの楽しさを味わうことができた。<br> これからお読みになる方には、二人の訳文や翻訳論を読む前に、自分の訳を作ってみることをお薦めしたい。