内田樹先生というのは定型をとことんあぐね尽くした方ではないのか。私は異常だと自身に気付いているので励まされます。分別は必要だけれども人生を愛する不可能性をむしろ信じたい。愛するに値すると‥排除されるべき人間などどこにも居ない。皆レヴィナス老師に依れば遅れて実存しているそうですから。たこが居たら連れて来て下さい。不可能性に於いて私が排除してやる。間違いなく稀に見る名著!人の人生に関与したがるマッチョとは対極。
「1.ユダヤ人はそのつど既に遅れて存在するもの。2.反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していた。」ということが、内田先生の言いたいことだそうです。しかし、「1.」については、「レヴィナスとノーマン・コーンという人が言っている」「聖書のヨブ記やマタイ伝に書いてある」という以上の根拠は示されていません。また、「1.」と「2.」のつながりがわかりません。さらにユダヤ人が知的である理由は「1.」だそうですが、その説明がまたありません。こんな具合にこの本は全体では何を言いたいのかさっぱり解らないのですが(わけのわからない話を書くことにより真に教化的なテクストとしたそうですが、全体のつながりぐらいは明確にして欲しいです)、部分は非常に魅力的で有益なので、読んでみる価値有り。「善意の人間が大量虐殺に同意することになるのは、どのような理路を通ってか」、「どうしてA級戦犯のような立派な人間たちが、彼らの愛する国に破滅的な災厄をもたらしたのか」と問う方が、彼らを悪者として切り捨てるより生産的であるとの指摘(p.104〜5)はまことにうなずけます。また、この本は反ユダヤ主義者の歴史や思考過程の詳細な追跡により、善意の人間が邪悪になっていく経過を見事に描き出しています。「「単一の出力に対しては、単一の入力が対応している」という信憑(ペニー・ガム法)」を抱いている人は、陰謀史観を免れることはできない。(p.98)」という指摘も見事です。そのような訳で、この本を読んで私の得た教訓は以下の通り「邪悪な存在にならないように、ペニー・ガム法で思考していないかいつも気をつけていよう」。ユダヤ文化については、何も解りませんでしたが、この教訓を得たことは私の一生の財産です。
内田樹の書くものは、すべて怪しげである。知的誠実さ、忍耐力のある議論、骨太の説得力、そういったものから無縁の似非哲学者。莫迦な読者には受けが良いが、まともな読者はまったく相手にしてない。問題は内田樹程度に、ころっとだまされる莫迦な読者の方にあるのだが、それを利用して楽〜に金儲けしている内田も相当なもんである。