ドイツとイタリアとソヴィエトの全体主義の持ったトータルな毒に著者は魅惑されています。そこでは確かにラジカルな挑戦と革新への息吹が見られたわけです。しかし日本の戦前の建築史に向ける著者の目は魅惑されたものではありません。著者は、確かに、日本についても、ファシズムという用語を用いながら、分析を進めます。しかしながら、そこに現れる日本の戦前の建築の実相は、外国の全体主義の下での建築とは異なり、もはや、ファシズムという枠組みの下でひとくくりにすることは、あまり意味がないようです。そこに見られるのは、クラシックという様式の衰えの下でのさまざまな意匠をめぐる”流行の闘争”以上のものではないのです。したがって、著者は、日本の戦前の建築史にファシズムイデオロギーの枠をはめて、グロテスクな解釈を生み出す倒錯した現代の日本の建築史家にその批判の目を向けていきます。この病的なアプローチに対する10章、11章の論調は、京都人らしく、飄々としながらも、容赦のないものです。ファシズムも共産主義というのは基本は同じ近代の運動であり、日本に戦前存在したのは、せいぜい”戦時リアリズム”であり、決してそれ以上のものではなかったというわけです。
「バチカン市国をこしらえたのは、イタリアのファシストである」という言葉をもって井上はこの本をはじめる。
<br /> まず、イタリアのファシズム、ドイツのナチズム、そして日本の戦時体制を取り上げ、一括して語られるであろうかという視点に立って全体主義を考察していく。
<br /> ドイツは、1936、7年から戦時体制への移行と同時期にベルリンの美装事業をすすめる。一方、日本では1937年に、鉄鋼工作物築造許可規則が公布され、主都・東京の中枢ではバラックがぞくぞくと建設されだした。
<br /> 見事な対比としか言いようがない。この対比は軸にして、ファシズム・全体主義を論証していく。
<br /> 井上はいう。「『見栄や、体裁』にはかまうな。そう建築じたいをして表現せしめるいきおいに、私はファッショを感じる」。建築は新しさや偉大さばかりでなく、「見てくれ」を否定する思想をも表現する。そんな禁欲精神に貫徹された社会も、「じゅうぶんユートピア的だと言えまいか」
<br /> 井上は建築の立場にたって、ファシズムを論じていく。建築から見ていくとこれまでの政治学や社会学とは異なった面が見えてくる。皇居前広場の静謐さの創造とその周辺の木造のバラック群、2600年を祝う皇居前広場にできた、悠久の伝統をあらわす祭殿に見られる仮設建築の安普請。
<br /> さらに井上は、靖国神社を中心において論じられている戦没者慰霊碑の他にも「忠霊塔」という慰霊碑をとりあげながら、丹下健三に代表される戦前と戦後の連続性にメスを入れていく。これまでの歴史とは異なった側面が建築を学んだ井上が培った知識によって描かれ、解明されていく。その視点の柔軟性に人はひきつけられるだろう。
<br /> このようにして、「日本ファシズム」は都市と建築をつうじて、清貧の徳を訴えた、と井上は語る。これほどの語り口を私は近代史に見たことはない。
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「バチカン市国をこしらえたのは、イタリアのファシストである、と」いう言葉をもって井上はこの本をはじめる。
<br /> 日本の戦時体制はファシズムやナチズムと異なって、革命をへていない。新しい権力は生まれていない。ヨーロッパのファッショ政権はあかるい未来を提示し、大衆を動員しようとした。
<br /> ムッソリーニもヒトラーも、ともに権力の簒奪者であり、支配の正当性を保持していないので、それをおぎなうためににも、彼らは劇場型政治を志向した。その結果が彼らの主都の都市改造計画となって現われた。
<br /> だが日本の戦時体制にはそのようなユートピア色はない。戦争のもたらすきびしい現実だけが強調される。1930年代末の体制は、「戦時体制として位置付けるべきである。」だから、「日本ファシズム」などという表現もひかえたほうがよい、とひとびとはいう。
<br /> イタリアでは、モダンデザインの新建築が、体制を宣伝する。ドイツでは、体制の新しさ、偉大さは、建築にたくして、表現されていた。
<br /> 「日本ファシズム」は、そのような都市建築を、ほとんど生んでいない。生んだのは木造のバラック群であり、未完成のままにほうりだされた鉄筋コンクリートであった。それは「戦時リアリズムの建築であった」。その意味でも「日本ファシズム」は、戦時体制であった。これは近年の政治学などと同じ結論を建築史も共有している。
<br /> しかし、戦時リアリズムが都市をかえる。「『見栄や、体裁』にはかまうな。そう建築じたいをして表現せしめるいきおいに、私はファッショを感じる」と「日本ファシズム」に著者はこだわる。
<br /> 建築は新しさや偉大さばかりでなく、「見てくれ」を否定する思想をも表現する。そんな禁欲精神に貫徹された社会も、「じゅうぶんユートピア的だと言えまいか」という。
<br /> 著者のこだわり、断定的に規定できない「日本ファシズム」に対するこまやかな評価が見事に表現されている。
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