単行本で「脱土地化」とされていた単語が今度の文庫版で「脱領土化」となっただけでも、ほとんどのドゥルーズの著作が翻訳された現在では、だいぶ読みやすいのではないでしょうか。
強引に大別すれば、翻訳には二種類のものがある。
<br />1)徹底的に解釈し、日本語として意味が通るようになるまで言葉を足してでもパラフレーズし、おまけに詳細な訳注や解説まで付けてしまう訳。
<br />2)訳語の選択自体がすでに解釈であることは否めないとしても、可能な限り解釈しない、説明しないで、最終的な解釈を読者に委ねる訳。
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<br />私自身は訳者の解釈がひどく間違っていない限り、1)の方が好きだが、これはもちろん2)の典型。市倉訳の存在を前提にし、市倉訳にパラサイト(寄生)しているような変な訳だが、原文のリズムに忠実という看板に偽りはないし、市倉訳が絶版にならない限り、第二の選択としてこれもあっていいんじゃないかな。
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<br />当面の敵である精神分析は滅びたが、資本主義は滅びる気配もない現在、さすがに分裂症(統合失調症)そのものを称揚する人はいないが、その原因物質であるドーパミンの効用は盛んに説かれる現在、原著の革命思想がどこまで有効かについては様々な議論があっていいが、見かけよりは遥かに真面目な意図を持って訳された本だと思う。
宇野邦一氏のアルトーの著作など普段から関心を寄せていた。その宇野氏がことあるごとに、あちこちでその邦訳を口さがなく非難してきた『アンチオイディプス』をとうとう自身で翻訳するというので手にとってみた。あまりにも酷いものだった。ドゥルーズとガタリのリズムをそのまま翻訳したという広告文句は見事に裏切られた。短いセンテンスをただ短いまま、だらだらと頭から翻訳するという日本語として大変読みづらいものになっている。これでは、解釈をくわえないのではなく、まったく解釈されていない自動翻訳である。すでにある邦訳(市倉訳)と比べて読んでみたが、市倉訳は日本語としてきちんとした流れができており、読者のリズムをこわさない。ただし、市倉訳が良いわけではなく、そっくり一文が抜け落ちたり(驚くべきことに宇野訳でも同じところが脱落していたりする)、おかしな人名などがあったりするので、出版社はなぜ市倉訳を改訂しなかったのか奇妙に感じるばかりである。文庫化、新訳なのだから版権はちゃんととっているのだろうか?もし版権も無いようなものを新訳として出版したとなれば出版社の良心が問われるだろう。引用などする前に興味のある方はまず調べられると良いと思う。(下巻と同文)