感覚というのは一種の行動である、という奇妙奇天烈な説を、寄せ手からめ手から解説し、読み終わるときにはなるほど!とおもわせてくれました。
<br />「知覚」と「感覚」は同時並行に進行するものであり、「感覚」が失われてもなお「知覚」は可能であるということを、「盲視」という症例をもとに説明したり、
<br />(盲視: 脳に損傷を受けて、本人は「見える」とはおもえないのに、実際には「見えていて、わかる」ということがあるらしい)
<br />「感覚」は「反応」をモニターする機能として進化してきたと考えられる、ということを「電話」という一人芝居を例に出して説明したり、
<br />「ミラーニューロン」が、行動の一種であるところの「感覚」を、それが行動であるがゆえに模倣しやすく、よって社会的な「共感」の基盤になっているという話や、
<br />(人形劇や昆虫など、実際には「感覚」をもっていないであろう「対象」に「感情移入」できてしまうのは、ここらへんが関係しているのだろうかと、勝手に想像してちょっと興奮しました)
<br />「感覚」は「現在という瞬間」を、その前後の時間的厚みをともなって感じられる理由や、
<br />とにもかくにも、「感覚」というものが何なのか、そしてその果たす意義について、興奮を味わいながら楽しめた本でした。
著者はイギリスの進化心理学者で、サルの「盲視」の発見者として名高い。2004年にハーバード大学で行った「赤を見る」という講義が本になった。人間の身体は完全に物質から出来ている。しかし一方で人間は意識を持っている。その意識は、物質とはまったく違ったありかたをしている。とすれば、「物質がいかにして意識を持ちうるのか?」という難問が生まれる。たとえば、我々には「薔薇が赤く見える」。しかし脳の中のどこを探しても「赤い色」は存在しない。赤さと無縁の物質たる脳が、どこで「赤い色」を生み出すのだろうか。
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<br />この難問に著者は進化心理学の観点から答える。著者は感覚のもつ「いわく言いがたい感じ」こそ、意識の原型だと考える。我々のもつ感覚は、アメーバのような原初の生物が外界の刺激に「身悶えして」(p97)反応したことの名残なのだ。「身悶え反応」は、高等生物に進化するに従って鎮まり、脳の中に内面化された。原初の「身悶え反応」は、外界の客観的認識である「知覚」にもとづく対応行動と、もとの「身悶え」に由来する「情緒」「好悪の感じ」「気分」を伴う「感覚」とに分化した。我々がマティスの絵の「赤さ」に「衝撃を受けたり」、音楽に「陶酔」したりするのは、我々の「感覚」に残る、遠い昔の「身悶え」の残響である、と。ここまでは良い。が、その「いわく言いがたい感じ」と「意識」を結びつける議論がやや説明不足。