本当にマルクスが『幾世紀を通じて世界最大の思想家だと、誰もが認めざるを得ない』(2006/2/15付吉本序文於エンゲルスからの引用)そして、『けち臭い党派や党派性などで引き裂かれるような凡庸な政治運動家や思想家ではない』(同吉本文)ならば、わたしたちはマルクスを読まなければならない。
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<br /> そして、中沢新一解説『マルクスの三位一体』にあるように、メルロ‐ポンティやサルトル、はたまたアルチュセールや広松渉ではなく、吉本隆明こそが、世界でマルクスを最も深く読んだ、ということならば、そして、『あとにもさきにも、日本にもヨーロッパにも、これほどに深いマルクス論に、私は出会ったことがない』(中沢)というならば、わたしたちは吉本のマルクス論にそくして本当かどうか自分の読みとつきあわせてみなければならない。
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<br /> この四十年以上前のマルクス論に、わたしたちは対決しなければならない。
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吉本にとってはマルクスの生涯も名もない一市井人の生涯も同じ価値をもつ。吉本には、大衆の原像から発想されない思想は必然的に堕落するという考えが根本にある。その視点を欠いたいわゆる公式的なマルクス主義を徹底的に批判してきたのも吉本であった。党派性から自由なマルクス論として高い達成を示したのが、ここに収録された一連の文章である。
<br /> わたし自身は熱心なマルクスの読者ではないのだが、池田晶子のマルクス理解などよりは、吉本のとらえ方のほうが魅力的に思えた。最近の吉本の文章にはどうかと思うものもあるが、このあたりの文章は強く引きつけるものをもっている。「幾世紀を通じて、幻想と観念を表現する領域では最大の巨匠」とされた人物、しかし、「現実の世界では、きわめてありふれた生活人」。要はマルクス自身がその総体としての自分のあり方にどれだけの自覚的な根拠をもつことができたかだと吉本はいう。自覚的な根拠とは正しい意味での思想のことだろう。
マルクスと言えばもはや手垢にまみれた思想家のようになっているが、
<br />著者も言うように読み直して何かが新たに見えてくる古典の一つで
<br />ある。これまでマルクス主義者、共産主義者と同調することがなかっ
<br />た著者はマルクスを独自のものにし、ある意味で卒業している。意識
<br />を意識すること、疎外…等、今もマルクスは既存のドグマ的解釈から
<br />自由になって読む者には思索の幅を広げてくれる。そんな読み方の
<br />好例がここにある。しかしマルクスへの興味はやはり彼の著書をゆっ
<br />くり読まないと湧いてこないだろう。
<br />マルクス入門用には勧めない。