表題の通り「右翼と左翼」に関する概説書。大変手際よくまとめられている上、著者の主張も読みとれて、それなりに読みごたえもあった。
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<br /> 「右翼」と「左翼」という言葉の表す内容の変遷を丁寧に辿っている。「右」と「左」という言葉は言葉自体に中身がないので、時代状況の変遷とともにその中身がコロコロ変わるのは、ある意味で当然なのかも知れないが、本書はそれをあらためて意識させてくれる。
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<br /> 内容を少し詳しくみると、まず若者が抱く「右翼と左翼」のイメージ分析から始まり、辞書の定義の検討、起源としてのフランス革命期の事情を詳述、そこから「自由」と「平等」をキーワードにヘーゲルとマルクスの自由論へ進む。一方「友愛」を「愛国」と捉え返し、これをキーワードに帝国主義と植民地の問題に切り込んでゆく。次に日本に移って、明治以後の歴史を辿りながら、日本の「右翼と左翼」の変遷を整理、最後に「右翼と左翼」や「自由」「平等」が吸引力を失いつつあることを指摘、かわって「宗教」や「民族」が台頭するゆえんを述べる、という構成である。
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<br /> 「自由・平等・愛国」という近現代の歴史を、「宗教・民族」を介して「文明の衝突」という「現在」にまで繋ぐ手際は見事で、少なくとも私のレベルの人間には読んでためになる本だった。
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<br /> ただ「自由・平等」を「理性」とするなら、「宗教・民族」は「物語」だろうか。両者は対立するわけではないから、「自由・平等」が終わってしまうのではない。対立するのは「愛国」と「宗教・民族」という「物語」の次元ということになろうか。ちなみに著者は「帝国」という枠組みも提案している。
著者はプロローグでも後書きでも、右翼・左翼という対立軸がよく分からないという(特に若い)人々に向けて本書を執筆したと述べている。でも本書の企みは実際にはもう少し野心的で、右翼・左翼概念誕生以来の歴史的展開をザッと追うことにより、むしろこの対立軸の失効を示そうとしている。
<br /> 周知のように右翼・左翼概念は仏革命に由来するとされるが、ポイントは革命推進派の合理主義・啓蒙思想vs反動側の伝統主義・権威主義という対立にある。その後、趨勢的には軸の中心そのものが左へ移動し、左端は共産主義思想にまで至る。この左端の彼方のユートピアがソ連解体とともに魅力を失うことで、左右の対立構図も実質的には失効した、というのが著者の主張。
<br /> これは当然、マルクス主義の破綻に留まらず、合理主義・啓蒙思想といった「近代のプロジェクト」の蹉跌を含意しているだろう。
<br /> ただし著者の提起する代案が、「仏革命以前に遡って、権威・序列・忠誠を柱とし、巨大宗教がその公正を支えた『帝国』の可能性の再検討。新たな千年紀を費やすかもしれない普遍的思想(宗教)の再構築」(p244)というもの。著者の師匠・呉智英による「封建主義」の主張ともども、正直言って容易には賛同しがたい大風呂敷ぶりで、残念ながら「社会の多勢への影響力は乏しい」(p228)と言わざるを得まい。
<br /> 付け足しながら、p178で1951年の安保条約が10年の期限付きで、だから1960年に岸内閣がこれを改訂強化しようとしたという記述があるが、誤り。最初の安保条約に期限に関する規定はなかった。
右翼、左翼の対立軸が何に由来するか、ということから、その観点から近現代世界史および日本史を概観した書物。新書の情報量でこれだけのことをするとなれば、当然それぞれについては浅くなるわけで、歴史的に言えばアンシャン・レジームから安倍晋三までカバーするわけだから当然の帰結だ。しかしこのような題材で、左右どちらにも(あまり)偏ることなく判り易く書き綴るのは至難の業だと思える。読者に語りかけるような、いわばフレンドリーな語り口で、近現代史についてかなりの知識が得られるようにできているし、読んで損はないと思う。ひとつだけいえば、やはりひとつひとつの掘り下げが浅すぎるので、ラスト近くで開陳される現在から今後にかけて著者が独自に開陳する政治論議についてはやや唐突の感が否めない。寧ろ、この部分については続編なり何なりの形で別の著書にしたほうが収まりが良かったろうと感じた。