著者は「全学連」と「全共闘」の違いにこだわります。
<br />それなら「全共闘世代」を所謂「団塊世代」(1947-49年生)で代表することもおかしいような。
<br />本文に言及もあるように、全共闘を主導したノンセクト・ラジカル達は院生や助手クラスも含めた年長世代。
<br />また、著者が大学入学したとき同世代の80%は働いており、この世代の一部が全共闘運動を担ったけれども、
<br />ごく一部でしかありません。
<br />
<br />では著者の目論みは?
<br />まず、全共闘を戦後左翼学生運動の流れに連なる過激派学生の政治革命ではなく、豊かな社会の前兆として
<br />高度成長&カウンター・カルチャーで育った団塊世代による文化革命として取り戻す試み。
<br />次に、豊かな社会とその終焉を見定め、セカイ系に社会や媒体を繰り込む思想的営為に全共闘を継承すること。
<br />
<br />スガ秀美が1968年の考古学を甲高くわめくのに対して、小阪はボソボソ声で生きた思想の継承を目指している
<br />ように思われます。たぶん伝わらないと思いますが。
「思想としての全共闘世代」というタイトルではあるが、もちろん具体的にそのような思想がある訳ではなく、著者の大学入学から現在に至る個人史と時代をオーバーラップさせながら、“全共闘の意味”についてまさに“個人的な視点から”語っている本である。そして、そのようなアプローチこそが“全共闘的”なのだ、ということも読んでみるとわかる。
<br /> 読み始めは、なんか自己弁護的だな、見方が手ぬるいなといった感想も持ったのだが、読み進めていくと、“全共闘運動”に対する誤解が僕の側にあったのかもしれないと思った。著者も書いてるように“三派全学連と全共闘”が僕の中ではごっちゃになっている部分があったし、内ゲバや連赤のリンチ、あさま山荘、よど号、三菱重工爆破といった先鋭化し大衆運動からかけ離れてしまってからの“過激派”のイメージがやはり圧倒的なのである。何よりも、全共闘経験の「つかまれてしまった」という感覚は、著者の語りによって、はじめて理解出来たものだ。これまでにこんな、まるで“波に飲まれてしまいました”といったような受動的で一見、無責任にも感じる全共闘語りは聞いたことがなかったのだけど、たぶん、それは率直な実感なのだろうと思うし、その分信じることが出来る。そして、「全共闘の意味とは、ストレートに伝達され言表されたものではなく、いったん水面下にもぐり、ふたたび出てきた影響や生き方にあるのだと思う」という考え方も。
<br /> “全共闘”については、団塊世代がノスタルジックに語ったり、知らない世代がオタク的に、トリビアルに語ったりすることには、どうしても違和感、拒絶感を持ってしまうのだけど、本書には、“全共闘という方法論の可能性”を感じることが出来たし、最終章でバタバタッと具体的な方向性が記されていたと思うので、その敷衍を期待したい。
革共同的でも、連赤的でもなかった「全共闘」的なるもののありようを描出すること、それが本書の目的だろう。もうひとつ目的があるとすれば、その全共闘世代の現在とこれからが、これからのグローバル化の時代にあらためて本来ある「精神」することが出来るかどうかだろう。本書のいいところは、「武勇伝」的な語りをしないこと。概して、この手の話はどこかで、ゲバルト礼賛論に陥り、「つっぱってるぜ」というところが売りになるからだ。こうした「夜の語り」に下の世代がうんざりさせられてきたことに、著者はきちんと配慮している。また、一般的に全共闘は戦後民主主義との断絶性が強調されるが、著者はむしろそれとの連続性を打ち出すところも特徴的だ。自発性と倫理観に強く拠った全共闘運動は、一方では市民運動のなかにそのエネルギーを継承させていき、他方で企業社会に統合されていく。全共闘運動を単なる挫折と捉えずに、それがどのようにその後の社会の中で息づいているのかを、本書は謙虚な姿勢でとらえようとしている。
<br />この総括は、定年を迎える全共闘世代に迎え入れられるだろうか、新しい世代にとどくだろうか?