おそらく元は今で言うところのブログに書き込む感覚で書いたのだと思う。「嘘をつくこと」と、「議論の揚げ足取り」あるいは「屁理屈」と一緒にするなということを言いたかったのか。
<br />実際のところは、訳者がストレスをためまくって、たまたま同じ主張をする人に出会って、彼を隠れ蓑にし、訳者解説をしたかったのだろう。訳者解説が半分以上を占める本なんて普通じゃ考えられないからね。読むべきところは、本文よりも訳者解説!
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奇抜なタイトルとは正反対に、至って真面目な本。
<br />bullshit(牛の糞、へりくつ)という単語の概念を規定することに全てのページが費やされている。
<br />例もまた至って真面目、言葉遣いも難解なので、浮ついた気持ちで手にとると痛い目にあう。
<br />世間が、あるいは自分でも時々使っているウンコな議論が、嘘や騙しとどう違うのか、その根拠と特徴を知りたい、思考の冒険をしようという人には面白い本。
民主党のニセメール問題やそのあおりでポシャった4点セットの国会論議、あるいは企業不祥事のお詫び会見、それを取り上げるマスコミ言説...どれもこれもがウンコ議論で、この本非常にタイムリーである。いや、この文章が執筆されたのは30年前らしいし、世事だけではなく職場周りにも犬の糞のごとく転がっているところをみると、著者の言うようにウンコ議論は“現代文化の顕著な特徴”なのだろう。
<br /> 山形浩生が(ほぼ本文と同じボリュームの)訳者解説で触れている通り、著者のウンコ議論についての評価は“一応留保されている”。まぁ悪いっちゃ悪いけど必要悪ってとこも無きにしも非ずだし、場合によっては“使いよう”もある、ってことだろう。但し、明らかに問題なのは、ウンコがウンコだとわからなくなることだ。ウンコ議論は、個人が組織の一員としての立場を持ったときに芽生えるものだと思うんだけど、国会やスタジオや会議室や飲み屋でしゃべってる奴らの言葉がウンコかどうか、自分が今しゃべってることがウンコかどうか、それがわからなくなったら終わりである。ウンコをウンコだとわかってさえいれば、まだ“使いよう”はある。
<br /> この本、訳の上手さもあるのだろうが、「道徳哲学」って難解さはまったく無く、センスのある文章で、読み物としてなかなか楽しい。お奨めの読み方は通勤電車でカバーをかけずに読むこと。周りのギョッとした反応が楽しめるし、ウンコ議論の存在を啓蒙する手っ取り早い手段でもある。