最近の医療人類学(臨床社会学、臨床人類学)のトレンドである、「ナラティヴ」という発想を一歩進めた、鷲田臨床哲学の代表作。<br> ナラティヴという考え方は、すでにクラインマン「病いの語り」やグリーンハル「ナラティヴ・ベイスド・メディスン」で呈示されていたが、ここでの著者の主張はある意味極めてシンプルである。従来は「ナラティヴ」を傾聴することによって、病者にとっての「病い」とは何かを知る、ということに力点が置かれてきたが、実は知ることではなく、傾聴すること自体にひとを癒すちからがある、というものだ。<br> もちろん、この考え方自体はすでにカウンセリングにおけるロジャース理論と一脈通ずるものがあり、著者の完全な独創というわけではない。しかし、すでに技法としてある意味限界が指摘されているロジャース理論をもっと幅広い局面で生かしてゆくために、ナラティヴという思想と結びつけたことは紛れもない著者の功績であろう。<br> また、すでに多くの方が指摘している通り、ファンの多い独特の文体と、砂丘を取り続けた特異な写真家、植田正治の写真が使用されていることも、本書の本としての魅力を高めていることも確かである。<br> 鷲田清一の著書として、まず第一に指を屈したい代表作である。
はじめて、哲学者の書いた本を読んだ。専門的な言いまわしももちろんあるが、広い意味での臨床にたずさわる人へ向けての問いかけもあるため、サクッと入れる。・・・この本はそういった、日頃”哲学”といったものにわざわざ目を向ける機会がないアナタにこそオススメだ。<br> 特に臨床にたずさわっている人なら、漠然と考えていた”目の前の患者(他者)”とかかわることの大切さにハッと気づかされるだろう。それも、医療・福祉業界関係者のような切り口とは又違った、人としてのベーシックな視点からの問いは不思議と引き込まれる。本書は『聴くことの力』ということに着目して、いろいろな方法で掘り下げていこうとする探求の書物でもある。痛みや、出会い、迎え入れるということ・・・そえられているモノクロの写真のように、控えめにでも印象的に知り考えるきっかけになるだろう。
ご主人が癌を宣告され、一緒に闘病をつづけていた友人がいました。その友人にどんなことばをかけたらいいのか、戸惑っていたとき、この本を思い出し、読み直しました。ことばをかけることにとらわれず、その人の思いを全身で「聴く」ことが私の祈りの行為になりました。<br>筆者はまた、「『聴く』ことは他者を支えるだけでなく、自分を変えるきっかけや慟哭ともなりうるものなのだ」とも言っています。コミュニケーションの中で、「論じる」「主張する」という行為だけでなく、「他者のことばをうけとる」という行為のありかたについて示唆に富む一冊です。