イランの建造物に興味があるということもあり、
<br />話題になっている本書を読んだ。
<br />人を惹きつけるタイトルとは裏腹に、話は散漫であり
<br />回想と現在がわざとわかりにくく書いてるかのようだ。
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<br />アメリカからみた「悪の枢軸イラン」にさせておくために、
<br />自由のなさのみが突出して表現されているようだ。
<br />しかし、それはもう20年も前の話なのに、あたかも現在も
<br />続いているかのように表現するのはいかがなものか。
<br />現在の注釈は、あとがきや、ほんのわずかにしかない。
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<br />この本は嘘ではない。
<br />しかし、それを現在に結び付けないのは意図的なものを考えてしまう。
<br />この本を読んでイスラム教の現実や、イスラム教の女性も同じ考えなんだ、
<br />と安易に考えさせる姿が不愉快だ。
<br />そして、なぜアメリカの考えが正しくて押し付けるのか。
<br />筆者から見た事実だろうが、イランの彼女たちの本音が書けているだろうか。
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<br />著者がアメリカ文学を専攻している
<br />現在アメリカ在住のイラン人という点も気になる。
<br />だいたい、イランでなくても、女子学生にロリータを読ませ
<br />感想を語り合わせるなど、悪趣味極まりない。
<br />読み終わった後に、不快感のみが残った。
<br />この本に共感するのは優越感だけのような気がしてならない。
以前に聞いた噂なので真偽のほどはさだかでないが、損保会社では査定担当者に小説を読むことを勧めるという。他人の心情や立場や事情への想像力を養うためだそうだ。
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<br />著者がこの本の中で、文学についての考察と過酷な社会生活の記録をたえず行き来しながら訴えているのは、第一には読書する喜びや自由・人権の擁護だが、どちらの面でもつきつめれば「立場の異なる他者へのおもいやり」と「人間は複雑で多面的なものだ」ということにたどりつく。そして、そして、他者を理解するために必要な想像力をやしなうのには、小説を読むことが有益なのだ、小説は決して無用なお飾りではない、ということに。
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<br />「他者の問題や苦痛に気づかないことこそが最大の罪なのです。見ないというのはその存在を否定することです」
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<br />文学面では、作中で取り上げられるナボコフ、フィッツジェラルド、ヘンリー・ジェイムズ、オースティン作品それぞれの登場人物で、もっとも罪が重くもっとも滑稽なのは、他者の気持ちなど思いもよらず自己の欲望と価値観のみに忠実にふるまう人々である、と、著者は彼らのコミュニケーション能力の欠如を浮き彫りにしてみせる。そして、小説の中で彼らのまき散らす問題の数々は、遠く時代と国を隔てながら、革命後のイラン女性たちの苦しみとシンクロして見えるのである。
<br />またリアル・ライフの側面では、イラン・イラク戦争のさなかテヘランへの空襲で、たくさんの子供たちがくずれた建物のがれきの下敷きになっているときに、狂信的自警団の武装した男たちがバイクで現われ、被害者を「殉教させる」のだと言って、人々が救助しようとするのを阻止するシーンがでてくる。彼らの目には、わが子を救おうと必死の母親の姿は見えていなかったのだ。
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<br />「いい小説とは人間の複雑さを明らかにし、すべての作中人物が発言できる自由をつくりだすものです。この点で小説は民主的であるといえます」
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<br />大学の同僚がつぎつぎと罷免され、留学仲間が、教え子が、恩師が処刑され、著者の研究室にも脅迫状が舞い込む。そんな描写の中で、著者のことばがいくつも、胸にずしりとひびく。
<br />この本を読んでぜひ、いま、読みたいときに本が読めることの幸せを、しみじみかみしめてほしい。
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<br />本好き、小説好きだけでなく、学生や、すべて教壇に立つ人に強く勧める一冊。