「国家」というものがダンボールハウスなみのフィクションに堕した現在に対して、私たちは怒る力が/怒るだけの意志があるのだろうか。「自分自身への審問」を経た著者の言葉はより濾過されていて、濁りがなくなっている。溢れる情報、その中に作為的な洗脳が、絶えず個人から全体に向かって、全体から個人に向かって行われる現在、自分の命をかけて真実を見ようとする意志がなければ曇りない眼を保つことはできないのかもしれない。
<br /> 忌むべき世界をあえて見据える著者の眼に映るのは、「あきらめた人間」しかいない砂漠だ。それは恐らく紛れもない日本の現実でありーーーしかしそれでも文章は、荒れ地に湧く水のように出てくる。自分の体を賭けずに語ることは今、余りにも容易く、ただそのことだけが、見渡す限り思考不在の風景をつくりあげる。全ての答えは出ないままに、ただ、著者の眼/その比類なきカメラに映る映像の中に逃れることのできない私たちの現実が見える。
本書には、私たちが内面に抱える宿命的な恥、
<br />そしてそれを無意識のうちに忘却することが、
<br />日本型ファシズムの進行を許してしまうことに激しく憤る、
<br />エッセーと講演録が収められています。
<br />
<br />著者の憤りは、著者に賛同し寄り添おうとする者にも向けられており、
<br />読んでいて苦しくもなります。
<br />例えば難民キャンプの現実を傍観すること、
<br />戦中の生体実験に無邪気に加担すること。
<br />まことに痛いところを衝く書物です。
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<br />後半の講演録は著者のこれまでの主張が、
<br />ご自身の闘病体験も交え、より先鋭に展開されます。
<br />一番の批判対象は、本来の役割を放棄したマスメディア、
<br />次いで、鵺のような日本型ファシズムの蔓延を許し、
<br />自ら自由な公共空間を捨てようとする我々です。
前作「自分自身への審問」が入院中の執筆物とすれば、本書は退院後の指針を示すべく論考集と言えそうである。前作では脳出血、癌という災厄につい目を奪われがちだったが、ここでは入院中から辺見を捉えてやまない「恥」という感覚に焦点が絞られ、我がこととして痛みをもって語られている。視座は不変にして旗幟鮮明である。オウム事件の際に提示したイナーシア(慣性)という摂理、つまり精神がイナーシアに支配されている時、「私」を失った身体は組織やシステムの指示者通りに動く機械と化す。およそ十年前に説かれたその摂理が、憲法改悪を筆頭として加速度的に進むファシズム化の中で拭い難い「恥辱」を養生していることに言及している。
<br />やや観念的な「自分自身への審問」を経て、病後辺見はたとえば本文中に紹介される石川淳の「マルスの歌」のように文学的手法をもって時代とコミットするかと思っていたが、どうやら見当違いだったようだ。いまここに在ることの恥。評するのではなく我がこととして対峙するのを迫られる書だ。