なんとも凄まじい山行をする人がいるものだ。 サバイバル登山はある意味で、8000m級の登山よりも厳しい部分もあるのだろうと想像する。著者はなぜ食料を持たないで自己調達のルールを自分に課すのだろうか? そのくせ、山中で出会った人からのおすそ分けを期待したり、下山後の食事を夢想したりするのだ。その心理は人間らしくて解りやすいし、正直に書いていて好感も持てるが、ぼくは、そのあたりの分裂気味な考え方や、心理をもっと書き込んで欲しいと思う。山行記録形式の今回の本は、それはそれで一気に読んでしまったが、激しい登山の記録を読めば読むほど、なんで、そんなことやってるの?と、素朴な疑問にとらわれてしまう。
<br />人生観や世界観を散りばめたエッセー風の文章も読んでみたいと思った。
全く別の本を探していたとき、表紙のふてぶてしい笑みを浮かべた筆者の写真が目に飛び込み、思わず購入しました。
<br />筆者の生い立ちから、学生生活、なぜサバイバル登山家になったのかが文字は多くページ数にボリュームがあるにもかかわらず、非常に面白く語っていたため、数時間で読み進めることが出来ました。読み終えての印象は、人間は極限状態に置かれたとき普段どんなにオシャレをし、気取っていても獣のように食料をむさぼり、獣のように五感が研ぎ澄まされるのだ。私も登山やキャンプをこよなく愛する一人だが、これらとは似て非なる真剣勝負に挑んでいる姿が活字ながらも鮮明に想像できる本でした。
<br />最後に、星一つを減点した理由は、登山用語が非常に多いにも関わらず、脚注がついていなかった点。登山シロウトの方の為にも付けて頂きたいです。
新聞記事で見たので読んでみた。人の趣味に文句をつけるつもりはない。また冒険であるのならその冒険に反対する権利もない。しかし、それが活字になった時には若干話が違う。先の新聞記事では、20匹のイワナを釣り、その内の10匹を食糧として確保したとあった。サバイバルであるから極力食糧は現地調達だと著者は語る。本書の中に「かって岩魚は渓流のウジといわれ、日本の渓にはいくらでもいたらしい。中略 しかし開発につぐ開発で山河は荒れ、その山を住処にする岩魚も、野生種はほんの一部の山奥でしか見られなくなってしまった。いまでは岩魚は原始の象徴にまでなっている。」と書いておきながら、「森に住む岩魚を食料とするなら、せめて山の中で自分に課す負担を多くして、心の中で岩魚を殺生することを正当化するしかない、負担とは食料や装備を持っていかないサバイバルでありソロであり、長期であり、毛バリであると僕は考えている」と言う。さらに釣りに関して「そのテンカラ(和式毛バリ)だが、この釣りは渓相、時期によってはエサ釣りよりも効率がいい。美しさ、優雅さ、躍動感をあわせもち、行為そのものに陶酔できる。日頃岩魚が食べているものにハリを仕込むエサ釣りは、仁義に欠いた騙し討ちの感があるが、毛バリは「食いついたお前が悪い」と言い切れる。してやったりという快感はエサ釣りを凌ぎ、生命を奪うことの引き目も少なく、よりフェアーである・・・・・・とは、やはり釣る側の勝手な思い込みだろうか」
<br />釣りをして魚を殺し食うのに釣り方の違いなど関係ないでしょう。勝手な思い込みです。岩魚を食べる事を否定はしない。されど在来種が絶滅危惧種になろうとしている現在、あえて食料や装備を減らして山にはいり岩魚を食う必要性はまったくないのです。そしてこんな登山を真似する人が出ない事を祈るばかりです。
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