日本のアニメやマンガがどのような経緯をたどりアメリカに受容されていったのか?本書は72年に生まれ、日本のアニメ・マンガの輸入黎明期に青春時代を過ごした著者パトリックの半生を通じてそれを辿ることができる。多くの図表と口語文体で読みやすい。
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<br />まったく別の作品に作り変えられ放映されたガッチャマンなど個々の作品を当時の配給会社等の事情を交え解説しているので、情報的価値もきわめて高い。アメリカにおいて日本のアニメ・マンガが現在の地位を得たその過程をリアリティをもって知ることが出来る。
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<br />ただ、そのカルチャーに明るいだけの未来が待っているわけではない。児童ポルノなど日本と共通の問題を抱えている。著者パトリックは冷静にその側面についても捉え見守っている。
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<br />アメリカにおけるオタクの過去を知り、現在を見つめ、将来を考える上で是非読んでおきたい一冊です。
こんなに面白いオタク本って、しばらくなかった。
<br />80年代以降のアメリカのガキどもが日本のアニメにはまっていく様子を、自分の体験を通じて瑞々しく語っている。
<br />一貫してアメリカの子ども(消費者)の視点で書かれていて、そこが他の同類の書籍とは決定的に違う点。
<br />本書はアメリカに於けるオタク・クロニクルになっている。
<br />超マイナーだったアニメ・まんがを渇望した80年代の黎明期から、商品の流通量が増えていく成長期の90年代、そして日本のポップカルチャーが立派なビジネスになった現在までを一気に語っている。
<br />大変だったんだあ、向こう(アメリカ)は、とつくづく思う。
<br />アメリカン・オタクの障害を乗り越えて燃え上がる愛のような熱意を感じた。
<br />作者は、しかしオタクの限界、ダークサイドも自覚している。どことなく醒めている。現状を手放しに喜んでいる訳ではない。それはお祭りの終わった後のちょっと寂しい感じににているかなと思う。
<br />好著です。
日本のアニメ・漫画文化がアメリカに平滑に伝わっているわけではないこと。また、アメリカのキリスト教(原理主義的)、マッチョ的支配文化のなかで、日本のアニメ・漫画が独特かつ強烈な「キャンプ」的機能を果たしていることが、興味深く描かれる。ただしかし、笑ってばかりはいられない。スーザン・ソンダクが死んだとき、四方田犬彦が追悼文で、彼女の功績を前提にしつつ、「結局のところ彼女は、ゴジラを賞賛はしたがその最奥にある原爆問題にはつうじることができなかった」と、つまり、ナショナルなものの最奥に刻まれたものにはとどかなかったと書いた。同じように、「キャンプ」なこと以上に、日本アニメが単なる消費物になっていることは、たとえば村上隆らの「原爆展」の消費のされかたにみられる、対米進出カルチャー組の「作業」をみても明らかだ。
<br /> 日本のオタク文化が、いまのところ日本を相対化するものとして機能しなくなり、ジャパニメーションの賛美におぼれつつあるのと対の関係として、アメリカにおける受容がアメリカ的消費資本主義の賛美・肯定の回路に陥ってしまう危険性を、著者はどこかで危惧していると思う。キャンプは支配的なものになるとただちにキャンプではなくなる。その危険性と「好きである」ことの可能性との間に逡巡がみられるところが、この本の一番いいところのような気がする。