『冤罪』
<br />この言葉を一体いつから耳にする事が増えただろうか。
<br />遠い事のような気もするのだけど、実際この本を読むと、
<br />こんなにも冤罪って多く、そして普通の一般人の身にも簡単に起こってしまう。
<br />実際、この手のニュースは事欠かない。
<br />多くは警察権力の怠慢だ。
<br />
<br />本当に恐ろしい。
<br />自分が冤罪事件に巻き込まれないようにする手立ては正直ない。
<br />
<br />ただ、知識は必要だと、改めて実感した。
<br />何も知らないより、知っている方が、いざという時に少しは助けになる。
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<br />だけど、自分が冤罪事件に巻き込まれたら終わりだな・・・
<br />
<br />もっともっと冤罪はこんなに起こってるんだ!!
<br />という事を世間に主張し、世間が耳を傾けて、
<br />動いていくしか方法はない。
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<br />自分も含む世間があまりにも無関心・無知過ぎるからこそ、
<br />権力を持った人たちが付け上がって汚くなってしまうのではなかなと。
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<br />と、私なんかはついつい熱くなってしまうのだが、
<br />著者は当然の事ながらいたって極めて冷静に取材し、
<br />淡々と書いているので、だからこそ内に秘めた熱意を感じる。
収録されている文章は、被疑者から見た”冤罪の構図”であり、捜査員や検事や判事から見た冤罪記録を読みたいものだと思う。あとがきにおいて著者が警察官や検事を一方的に悪者扱いするつもりはないという意味のことを書いているが、不十分だ。取材が難しいことは承知しているが、冤罪は被疑者と捜査員との間で発生するものなのだから、一方からだけ見ても、全貌はわからないと思う。<br> 刑事事件とまったく無関係に過ごしてきた人が、いきなり捜査対象にされるケースはめったにない。冒頭のトラック運転手の件などは稀なケースなのである。被疑者には、それなりに疑われる材料があり、捜査員にしてみれば、合理的な推論をもって、捜査を行っている。<br>裁判の公開が不十分という、著者の主張はもっともである。判決文はともかく、裁判において提出された証拠を読むことは、一般人にはほとんど不可能である。傍聴をしても、メモしか許されず、提出された文書を読むことができないのでは、何をやっているかわからない。
いわれ無き罪を負わされ「犯罪者」として罰を受ける。我々がこうした<br>冤罪の犠牲者になる可能性は驚くほど高い。なぜなら冤罪を生む<br>原因は警察の捜査、検察の起訴、裁判官の判決に誤りがあっても個<br>人の責任は一切追求されない制度、組織ぐるみの隠蔽・妨害工作が<br>公然と行われる体質にあるからだ。<p>女史は冷静な筆致でこうした問題点を個別のケースから浮き彫りにし<br>てゆく。取材の過程で感情的になることもあったはずだが、あくまで<br>もその文章は事実のみを伝えようと努める。だからこそ、その事実が<br>突き刺さるのだ。<br>本書を読むと、冤罪の犠牲者になるか否かは運次第なのではないか<br>という恐怖すら覚える。<p>普段見ているTVニュースや新聞等、マスコミ報道で注意すべき言葉、<br>「信じている」。<br>官であろうと民であろうと組織がこう言う時、その言葉は「信じていない」<br>と同義である。