読後のこの脱力感は何であろう。長旅につき合わされて、ふと気付いたら始点を循環していただけのような、徒労に近い感覚。ノーベル生理学・医学賞受賞者であるアレキシス・カレルの代表的著書にして世界的名著である本書は、アレキシス自身の専門分野を源泉とした哲学的な思索や考察に基づいて、未知なる人間存在の探究を試みた一冊で、様々な分野の人々を勇気づけ、また深い思索へと導いてきた・・・と言われている。
<br /> アレキシスと時代を隔て、現代という怪物の胎内に身を置く私が、そこに横たわるギャップをして本書を“無意味”とすること自体に、すでに進歩(あるいは退化であろうか、いずれにしろ時間的経過)という無敵の宝刀を抱えていることになるが、辛辣でシニカルな感想はそれにのみ依っているいるわけではもちろんない。
<br /> 本書が発表された1935年に比べて技術論的/科学的には、当時未知であったことが多々明らかになった。本書にある著者の憶測や推論が幼稚に見えるのは当然のハンデだ。しかしそれを差し引いても、時代の変遷が克明に照射する誤差の大きさがなおさら、当時の時代精神の偏狭さや杜撰さをあぶり出して失笑を誘う。
<br /> いや、そもそこに在る違和感の原因は、時代性の問題ではないのだ。むしろ著者自身の問題なのである。アレキシスは、おそらくマッド・サイエンティストなのだ(無論褒め言葉である)。人知を超えるほどの天才とバイタリティの持ち主という意味で、狂気に近い存在なのだ。
<br /> しかしそれゆえに、“部分の改善が全体の改善を実現する”という短絡的なオプティミズムをいささかのペシミズムを気取って告白した本書の内容は、アレキシスが批判する“近視眼的”な指向に自ら陥っていると言わざるを得ない。しかり、専門家としては天才であるが、体系的な事象を扱わせてはならないのがこのタイプなのである。ただし神秘的な要素が人間に及ぼす影響について、あの時代に堂々と語ったことは確かに有意義である。この点についてアレキシスは時代を先取りしており、かつ現代もまだその慧眼に追いつけていない。
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医学は細分化され全体像がみえなくなってきている。近年はとくに臓器のなかでもさらに専門化が進んでいるようだ(たとえば単に内科ではなく、心臓、腸、胃、腎臓など各臓器ごとの専門家がいる)。未知の事柄を解明し人類のあたらしい知識の獲得に貢献する、つまりアカデミックな業績を上げるにはそうしたアプローチは正しい。しかし、実際に患者を診察し、治療する立場の人間は患者の病状全体を理解し、なおかつ生活、家庭環境、生活習慣など総合的に理解しないと本当の病気の治癒はできない。(病気の真の原因は孤独ということもありうる)。本書はノーベル賞受賞者でもある医学者カレルが細分化して得た人間の体の知識を再構築して、全体像を描きなおしている。できるだけ正確に記述しようとするカレルの文章には緻密な人間の体の構造に対する畏敬の念が感じられる。医者や看護士など医療に携わる人にはぜひ読んでほしい1冊だ。(なお、カレルが生きていた時代は現在から100年近く前であることを考慮して、現代とは医学知識も時代背景も若干異なる、ということを前提にお読みください)
医学者であるアレキシス・カレルが1900年代前半に書いたエッセイ集。「人の精神と肉体は不可分」という一貫したメッセージのもと、カレル自身の研究成果、意見、持論、理想論が展開されている。
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<br />当時の時代背景やカレル自身が東洋の思想を知らないことなどが影響し、この本には現代の視点から読むとクエスチョンな部分も多い。例えば、優生学的な思想が見えるところには嫌悪感を覚える。
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<br />そうしたマイナス面はさておいて、興味深い内容が盛り込まれていることに着目したい。人間を知るためには、個々の分析だけでなく再統合の必要性があること。祈りにより大病が治るケースが象徴するように、精神と肉体は密接にかかわっていること。人間が持つ可能性を呼び覚ますためには、断食など一時的に“努力”を要する機会を設けること、などだ。
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<br />これらのポイントを眺めてみると、ここ数年改めて注目を浴びているトピックばかりということがわかる。カレルは次の世紀に注目されるであろう医学/健康パラダイムに、いち早く目をつけていた。