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倭の五王の謎 5世紀の中国の歴史書「宋書」倭国伝には、讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)の5人の倭国の王が名を残している。 これがいわゆる「倭の五王」で、それぞれ「日本書紀」に登場する仁徳(にんとく)・反正(はんぜい)・允恭(いんぎょう)・安康(あんこう)・雄略(ゆうりゃく)の各天皇ではないかと考えられているが、確かではない。 この五王はそれぞれ中国からいくつもの称号を与えられており、特に「武」には、まるで朝鮮半島南部の支配を任されたかのような称号があたえられている(実際は名誉職であったらしい)。 なぜ、倭の五王はそれほどまでに称号を欲しがったのか。 実はこの頃の倭国は、朝鮮半島内の紛争に積極的に介入している。 理由は、高句麗の南下である。高句麗は北方の騎馬民族国家であったが、朝鮮半島南部へと盛んに軍を送り込んでいた。 これに対して朝鮮半島南部の百済(くだら)・新羅(しらぎ)・伽耶(かや)の三国はある時は共闘し、またある時は敵対して生き残りをはかり、倭国の加勢も頼りにした。 この事は「広開土王碑(こうかいどおうひ)」に詳しく書かれている。 強大な軍事力を持つ高句麗は、中国にとっても手に余る存在だった。 そんな時に倭国の王たちが称号を獲得しようと、中国(宋)に働きかけていた。 しかし、「倭の五王が誰なのか」という点をはじめとして、朝鮮半島の争いに介入した倭国王たちの狙いや、なぜ介入が可能だったのか、そして「倭の五王」は本当は誰だったのかなど、まだ謎は多い。
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