|
旧石器時代と縄文時代 | 縄文時代の謎と特徴 | 縄文から弥生へ | 弥生時代概要 | 邪馬台国の謎 | 古代史の謎 | 空白の古代日本 | 騎馬民族征服説 | 出雲にあった?幻の古代国家 | 倭の五王の謎 | 古墳はいつ誕生したか | 古墳の構造とその変遷 | 大和政権の誕生 | 大和政権の構成 | 土地制度 | 渡来人たち | 古墳時代の人々の生活 | 埴輪の謎 | |
|
古墳の構造とその変遷 前期の古墳の大半は、丘陵上に造られた前方後円墳と前方後方墳であり、全長100〜300mの墳丘を葺石で覆い、埴輪を周囲に配している。 古墳の形には前述した2つの他にも方墳・円墳などがあるが、巨大な古墳は全て前方後円墳であり、これは最も有力な首長の墓とされている。 前方後円墳の後円部の墳頂には埋葬施設があり、竪穴式石室に木棺を納め、勾玉や管玉、銅鏡、鉄製の武器や農耕具などが副葬されている。 副葬品のなかに宗教的な道具が含まれていたことから、この時期の古墳の被葬者が司祭者的性格をもっていたことがうかがえる。 古墳は、弥生時代の地域集団の首長の墓とはちがい、共同墓地から離れた場所に独立して築造されている事や、1人の首長のために1つの巨大な墳丘を築いている事などから、古墳時代の首長の権力は弥生時代より強大になり、支配者的性格が強まったと考えられる。 首長の古墳は、数基が集合して古墳群を形成している事が多く、これはその地域の首長の代々の権力継承の儀式の場としても古墳が機能していたのではないか、と考えられる。 5世紀になると、国内最大級の古墳である誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神陵)や大仙陵(だいせんりょう)古墳(仁徳陵)などが大阪平野に造られる。 造営方法も変化し、平野部に人工の巨大な盛土を築き、その周囲に濠をめぐらせている。副葬品も、馬具や金銀の装身具、須恵器など大陸伝来の技術によるものや、鉄製の武器や武具(軍事力を誇示するためと見られる)などが多くなる。 この時期から関東にも巨大な古墳が造られている。6世紀には直径10m前後の円墳が10基〜100基ほどまとまって造られた群集墳が各地に増え始めた。 この頃になると、首長だけでなく有力農民層による古墳築造が増える。 農業生産力の発展で一部の農民が力を持ち、首長層の統率力が弱まったためと考えられている。 5世紀半ばに誕生した横穴式石室は、それまでの竪穴式石室と異なり、棺を納める「玄室」と、玄室と入り口とを結ぶ通路である「羨道」を持ち、墳丘側面に入り口を設ける構造になっている。 また、山の斜面に墓穴をつくる「横穴」も出現した。 副葬品に食器が加わったことなどから、「墓=死後の生活の場」と考えが変化した事がうかがえる。 6世紀末には、大和朝廷大王の墓も前方後円墳から方墳へと変化した。 これは、古墳の規模で権力誇示をするよりも、石室のつくりのほうが重要視されるようになったためと考えられている。 この頃から、石室内部の壁に幾何学文様や絵を描く「装飾古墳」が各地で造られている。 関東では畿内よりも遅い時期まで古墳が造られ続けていたが、古墳の築造は8世紀になると全国的に消滅した。
|
Copyright(C) 2002 - Mitsuharu Matsumoto All rights reserved.