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弥生時代概要 「弥生時代」の名称の由来は、1884年に東京都文京区弥生町(当時)の貝塚跡地から、縄文土器とは明らかに特徴の異なる土器が発見された事からである。 縄文式土器に比べて厚みがなく、装飾は簡素で、より頑丈なその土器は、「弥生式土器」と命名された。 この発見により、縄文時代と古墳時代の間に「弥生時代」という時代が存在したことが明らかになった。 この弥生時代はおおよそ紀元前4世紀ごろと見られており、この頃に大陸文化の影響を受けた九州北部で、水稲農業と金属器の使用が始まった。これらは紀元前3世紀までには西日本一帯に広まった。 水稲農業は中国の中部および南部で早い時期から始まっており、この水稲技術が日本に伝播した経路については諸説がある。その中で最も有力と見られているものに、「長江下流域から朝鮮半島を経て伝来した」という説である。 その根拠は、朝鮮半島南部と北九州に共通する遺物が見られること、この時代に使用されていた石包丁が北九州と江南・朝鮮で類似していること、北方系の乾燥地で見られる貯蔵施設である「穴倉」が、弥生時代の初期の遺跡にあること等から、この説が有力視されている。 弥生時代も、土器の型式の変化を基準として、前期(紀元前300年代から紀元前100年)、中期(紀元前100年から紀元後100年)、後期(紀元後100年から300年)の3つの時期に区分される。 前期には低湿地での小規模な湿田が多く、灌漑や排水のための水路は発達していた。 また農具も発達しており、鍬や鋤、杵などが発見されている。 弥生前期の青森県にも稲作が存在した形跡があり、これは海流に乗って伝わったものと見られている。 このことから、弥生時代には陸路だけでなく海路による交通も発達を続けていたと考えられている。 また、占いに用いられた卜骨が、島根県の古浦遺跡から出土しており、前期から鹿の骨による卜占が行われていたらしいことがうかがえる。 中期からは弥生文化が関東地方に波及し、縄文式土器の影響を強く受けた形式の弥生式土器が作られた。 当時の関東および東北地方では、「再葬墓」(縄文期にみられる墓の特徴のひとつで、一度土葬して骨だけにしたあと、壷に入れて再び埋葬した墓)がみられたが、北九州では支石墓の(上蓋に当たる石を数個の石柱で支えた墓)や甕棺墓(土器の甕を棺とした墓)が、近畿地方では方形周溝墓(棺を低い方形の墳丘に葬り、その周囲を溝で囲った墓)が盛んにつくられている。 近畿を中心にして、銅鐸による祭祀が始まり、また瀬戸内海沿岸に軍事・防衛的高地性集落が作られたのも中期のことである。 弥生時代は本格的な階級社会が生まれた時代でもある。 農業作物は各集落の構成員が共同で管理していたと見られているが、農地を開拓するための灌漑工事には複数の集落が協力し合って作業する必要があった。 そのため、この複数の集落を統率する首長が誕生し、やがて工事の指揮だけではなく、他の地域集団との交易や戦争、さらに余剰生産物の管理や利用に関しても権限を持つようになった。 集落の集合体である地域集団の首長たちはお互いに戦争を繰り返し(交易品や農地、交通路をめぐる争いだったと見られる)、勝った集団が負けた集団を吸収して、各地に小国が生まれた。 首長は死亡すると全長が何十メートルもある墳丘墓に、おびただしい副葬品と共に葬られた。 墳丘墓の規模にも格差があり、また墳丘に葬らずにただ木棺や石棺、土器棺に遺体を入れられて地下に埋められただけの墓もあった。 これらのような埋葬方法の違いは、集団の中に身分の格差があった事を示している。 地位や権力のある者は大規模な墳丘に副葬品を伴って葬られ、一般人は共同墓地に葬られたと考えられる。 当時の中国の史書「漢書」地理志によると、紀元前1世紀ごろの日本(当時は倭国と呼ばれていた)は百国以上に分裂していて、漢が朝鮮半島に設けた楽浪郡(現在の平壌付近)に定期的に使者を送っていた、と書かれている。 また「後漢書」東夷伝には、西暦57年に倭の奴国(なこく)の王の使者が後漢の都である洛陽(らくよう)に行き、時の皇帝である光武帝から金印を与えられた事、および107年にも別の倭国の王が160人の「生口」(ここでは奴隷の意)を後漢の皇帝である安帝に献上した事が記されている。 当時の倭国の王たちが漢に使者や献上品を送った目的は、中国の皇帝の後ろ盾を得て自らの地位を権威づけたり、また中国の先進文化をとりいれたりするためだったと考えられる。
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