書評と引用 蝦蟇の油 黒澤明
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「蝦蟇の油」(黒澤明)、引用

 ある江戸時代のオープン・セットでのことである。

 今、その字は忘れたが、ある商家の表に看板が出ていた。俳優の一人が、あれは何の看板か、と私に聞いた。私にも、その看板の字は良く見えず、どういう商品かよく分からなかったが、ただ当てずっぽうに、薬の看板だろう、と答えた。

 その時、山さんの珍しく、厳しい声が聞こえた。 

 「黒澤君」

 私は、驚いて山さんを見た。

 こんな怖い山さんの顔は、それまで、見たことも無かった。

 その怖い顔で、山さんは私に言った。

 「あれは、匂い袋の看板だ。いいかげんなことを云ってはいけない。知らないことは、知らないと云うんだ。」

 私は一言も無かった。


 批判は、誰にでも云える。

 しかし、その批判の上に立って、具体的に改訂してみせる事は、並大抵の才能でできることではない。


 山さんは、監督になりたければ、先ず、シナリオを書け、と云った。

 私も、そう思ったから、シナリオを一生懸命書いた。助監督は、忙しい仕事だから、シナリオを書く暇はない、というのは怠者だ。

 一日に一枚しか書けなくても、一年かければ、三百六十五枚のシナリオが書ける。


 しかし、監督が苦労しようが、助監督が苦労しようが、キャメラマンやライトマンが苦労しようが、そんなことは、映画の観客の知ったことではない。

 要は、余計なところの無い、充実したものを見せることだ。

 撮影する時は、勿論、必要だと思うから撮影する。しかし、撮影してみると、撮影する必要が無かったと気がつくことも多い。

 いらないものは、いらないのである。

 ところが、人間、苦労に正比例して、価値判断をしたがる。

 映画の編集には、これが一番禁物である。


 突然、駅の人ごみの中から、その水さんが出てきた。

 関西の実家で寝ているはずの水さんだったから、私は吃驚した。

 いや、そんな事は知らないでも、その時の水さんの姿を見た人は、思わず息をのんだろう。それほど、その水さんの様子は、病み衰えて、何か凄惨なほどだった。

 私は、思わず、水さんに走り寄った。

 「どうしたんです、水さん、大丈夫ですか」

 水さんは、、蒼白な顔を歪めて、やっと笑顔を作って、云った。

 「でもね、映画が作りたいんだ、どうしても、映画が作りたいんだよ」

 私は、言葉も無かった。

 気持ちは、痛いほど、解った。

 水さんは、これからだ、これからなのに、そう思って、寝てはいられなかったのだ。


 「姿三四郎」について書きたいことは、まだまだ沢山ある。そのすべてを書くとしたら、それだけで一冊の本になるほどある。

 映画監督にとって、一本の作品は、ある一生だからだ。


 何事も全身全霊を打ち込まずにできるものは無いのである。


 毎日、植草と私は、破いたり丸めたりした原稿用紙に囲まれて、渋い顔で睨み合っていた。

 もう駄目だ、と思った。

 投げ出そう、とも考えた。

 しかし、どんな脚本でも、一度や二度は、もう駄目だ、投げ出そう、と思うときがある。

 そして、それをじっと我慢して、達磨のように、そのぶつかった壁を睨んでいると、何時か道が開けるという事を、私は沢山脚本を書いた経験から知っていた。


 私は、特別な人間ではない。

 特別に強い人間でもなく、特別に才能をめぐまれた人間でもない。 

 私は、弱みを見せるのが嫌いな人間で、人に負けるのが嫌いだから努力している人間に過ぎない。

 ただ、それだけだ。


 しかし、観客が本当に楽しめる作品は、楽しい仕事から生まれる。

 仕事の楽しさというものは、誠実に全力を尽くしたという自負と、それが全て作品に生かされたという充足感が無ければ生れない。

 そして、そのスタッフの心は、作品の姿に現われるのである。


 人間は、ありのままの自分を語ることはむずかしい。

 人間には、本能的に自分自身を美化する性質がある、ということを改めて思い知らされたのである。

 しかし、私も、この社長を笑う事はできない。

 私も、この自伝のようなものを書き綴ってきたが、果してその中で正直に自分自身について書いているのだろうか?

 やっぱり、自分自身の見にくい部分には触れずに、自分自身を大なり小なり美化して書いているのではあるまいか?

 私は、この「羅生門」の項を書きながら、そのことを反省せずにいられなくなった。

 そして、先に筆を進めることができなくなった。

 図らずも、「羅生門」は、私が映画人として世界へ出て行く門になったが、自伝を書いてきた私は、その門から先へは進めなくなってしまった。

 だが、それもよかろう。

 「羅生門」以後の私については、それ以後の私の作品の中の人間から読みとってもらうのが一番自然で一番いい。

 人間は、これは私である、といって正直な自分自身に付いては語れないが、他の人間に托して、よく正直な自分自身について語っているものだからだ。

 作品以上に、その作者について語っているものはないのである。

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