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「イエスの生涯」(遠藤周作)、書評彼は、遠藤周作というキリスト教と人間の弱さを追うまじめな文学者としての顔と、狐狸庵先生として知られるおどけたもう一つの顔を持っているが、この本は、そのうちの前者、小説家・遠藤周作としての一つの集大成であると思われる。母親から自分の意志と無関係に押し着せられたキリスト教という洋服を、その生涯を通して日本人の自分にあうように仕立てなおそうとしてきた筆者が到達した、一つのイエス像の形である。 彼が生涯を通して描いてきたもの。 それは人を裏切ったり、嘘をつかずにはいられない意志が弱く、卑怯な人間について。 そして、その弱く、卑怯な人間にとっての母なる神、イエスの姿だといえるだろう。 本書の中でも、その姿勢は終始貫かれている。 彼が、本書の中で描くイエスは終始無力な存在である。弟子達に裏切られ、人々に中傷され、貶され、弟子達に見捨てられたただの一人の男に過ぎない。 それだけではない。「沈黙」や「深い河」など彼の物語に一貫した特徴であるが、この本で描かれる人物に強い人間は一人もいない。彼の弟子達も、市民も、病人も、イエスに関わる全ての人々が、意志が弱く、ある者は利己的で、ある者は嘘つきであり、ある者は卑怯であるような弱い人間である。 例えば、この本の中ではユダだけでなく、 ペトロまでも弱く利己的な人間として描かれているのだ。 弱虫だった弟子達が何故、イエスを神と考えるようになったのか。なぜ、イエスの死後、弟子達は迫害を受けながら、それに抵抗できる強い使途に変わったのか。人々とのイエスの生活とその死までの過程を追いながら、イエスの生涯と彼らの心の謎を淡々と追っていく。 イエスは無力だった。 けれど、イエスは無力であったからこそ、イエスそのものであったこと。 そして、だからこそ、弟子たちの心にただの預言者ではなく、神として残ったのだということ。 その過程が淡々と、しかし、説得力を持って語られている。 彼の言葉を借りれば、この本で語られる物語は事実ではないかもしれないが、そこには一つの真実がある。 たとえ、キリスト教徒でなくても、一読に値する良書である。
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