|
|
|
「人間は笑う葦である」(土屋賢二)、書評お茶ノ水大学の哲学科教授である土屋賢二さんは、デビュー作である「われ笑う、ゆえにわれあり」以来、たくさんのユーモアエッセイを上梓してきた。 もちろん、本書もそのひとつであり、本書には、他の本と同じように多くのユーモアエッセイが含まれている。 しかし、ただそれだけではなく、 哲学を専攻している人間が、なぜ、笑いに興味を持つのか? という疑問に本書では少しだけまじめに答えているように思う。 それは、本書がひとつの連載をまとめたものでなく、氏がさまざまな媒体に書きなぐったものをまとめていることに起因することだと思うのだけれど、例えば、本書の中の、ナンセンスの疑い-「わたしってだれ?」って何?とか、ユーモアのセンスとは何か。などがそれにあたるだろう。 特に、「ナンセンスの疑い」にある最後のセンテンスは、土屋さんの底に流れている重要な考え方に思えるので、以下に少しだけ引用しておく。 「わたしはだれ?」問いはナンセンスである疑いが濃厚である。 もしそれが笑えるナンセンスなら問題はない。 第一に、笑えるし、第二に人の人生を変えるほどの影響力をもたないから。 問題なのは、「自分はどこから来たか」のように、深刻にみえるナンセンスの場合である。 この場合は、笑えない上に、人の一生を変えるほどの影響力をもつことがある。 だれでも「何のために生きているのか」とか「いかに生きるべきか」とか「自分とはなにか」といった疑問を抱く(と思う)が、一度このような疑問を抱いたら、それを解決しないまま一生を終えるのは不幸だと感じるのではなかろうか。 ナンセンスのもっている深刻なみせかけと戦い、できればそれを笑えるような形にして見せること、これが哲学の役割ではないかとわたしは思う。 土屋さんがユーモアエッセイを書くのは、つまり、そういうことなのではないだろうか。
|
Copyright(C) 2002 - Mitsuharu Matsumoto All rights reserved.