|
|
「日本人とユダヤ人」(イザヤ・ベンダサン、山本七平 訳)、書評ユダヤ人と対比することによって日本人というものを考察している日本人論。著書であるイザヤベンダサン 氏は日本育ちのユダヤ人ということになっており、彼には続編として本書のほかに「日本教について」という著書がある。本書が発表されたのは、1970年代であるのだが、当時、通常の日本人論としては異例のベストセラーになった。(あとがきによれば、平成9年現在、二百十三万二千部の売上であるらしい。) 本書はイザヤベンダサンという一ユダヤ人の視点から見た日本人論という形式を取っているが、この本がベストセラーになった当時は、作者は実際は日本人(訳者である山本七平 氏)なのではないかともいわれたようだ。(実際、その説は濃厚のようだ。) 四季に追われた生活と農業とそこから生まれるなせばなるという哲学。 模範を選び、それを真似ることで生きてきた隣百姓の論理。 大声をあげるほど無視され、沈黙のうちに進んでいく日本人の政治的天才。 法律があっても、必ず拘束されるわけではない、それを超えて存在する日本人の法外の法。 そして、日本人の論理の中心に据えられた「人間」という概念。 そのような日本人の特徴をユダヤ人との対比により鮮やかに考察しながら、本書は、ある一つの重要な結論へと突き進んでいく。 それは日本人は、決して無宗教ではなく、「人間」を中心とした一つの巨大な宗教集団なのだ。という結論である。 日本人は、無宗教である人が多いといわれるが、実際にはそうではない。 自分自身の宗教をそれを意識すらしない程に体に染み込ませているという意味で、日本教は世界中のどこよりも強い、強烈な一つの宗教なのだという彼の論理は、21世紀の今でも、斬新で日本人に対する全く新しい視野を私達に与えてくれる。 彼の論理で言えば、キリスト教であっても、仏教であっても、それは全て日本教に組み込まれており、日本人はどんなに頑張っても結局、日本教徒でしかありえない。日本人の究極の概念は、神よりもまず人間であり、神を人間に近づける形でしか日本人は神を理解できないという彼の主張は非常に過激ではあるが、しかし非常に面白い。 かつて、遠藤周作 氏が「沈黙」の中で、フェレイラ教父にこんなことを言わせる場面があった。 基督教の神は日本人の心情のなかで、いつか神としての実体を失っていった。(「沈黙」P191) 彼らが信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで…神の概念は持たなかったし、これからももてないだろう。(「沈黙」P192) 日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超える存在を考える能力も持っていない。(「沈黙」P193) 日本人は人間を美化したり拡張したものを神と呼ぶ。人間と同じ存在を持つものを神と呼ぶ。だが、それは教会の神ではない。(「沈黙」P193) 遠藤周作 氏の言うキリスト教の和服化には、この本と通じるものが感じられる。 普段意識しない日本人という枠組みを、本書によって深く考えることが出来るだろう。
|
Copyright(C) 2002 - Mitsuharu Matsumoto All rights reserved.